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2017年8月

2017年8月31日 (木)

途中経過

サッカー日本代表。

対オーストラリア戦、1-0でリード。

もう1点!

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高森ホルモン

絶対にお勧めです。

各地のホルモンを食べてきましたが、上位にランクされます。

販売は、浄法寺の高森商店。

今夜は久しぶりに食べようかと思います。

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どこかで見かけたが

南部美人の看板。

結構前に、知り合いから送ってもらった画像。

いまも残ってるんでしょうか。

場所も、どこかで見かけた記憶があるんですが・・・。

欲しいですね。

古式浄法寺椀の未使用品なら交換したいです。

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陣場台熱球録 14

 明治時代の初対戦から連敗すること13試合、盛岡中学からはなかなか勝利することができなかった。大正末期の盛岡中学は、既に甲子園に出場すること3回、ベスト4にも2回進出するなど東北随一の名門として君臨していた。盛岡中学から勝利することが、甲子園に出場することと並んで大きな目標であった。いよいよその瞬間が訪れたのである。

 大正13年10月26日。この日は福中グランドに固定式バックネットが完成したのを記念して完成祝賀試合が行われた。この試合の相手として盛岡中学を招いたところ、快く承諾し審判まで連れて来るという熱の入れよう。校庭に集まった観衆は約1000人、学校創立以来の試合とあって熱狂した。

 不来方クラブの阿部、宮野両氏の審判により午前10時に試合開始。福中先発中津川投手の左腕は冴え三振16個を奪い、許した安打はわずかに2本。対する盛岡中学先発の松原投手に対し、福中打線は三振7個を奪われたが安打5本を奪った。試合は4-3で盛岡中学を破り歴史的な勝利をする。それまでの練習試合では13連敗と歯が立たなかったが、これにより選手一同は強い自信を得て更なる練習に励んだ。

 当時を知る人の話では、審判団の公正な判定、盛岡中学吉田選手の「本番では絶対負けない」という言葉、試合終了後に行われた両校選手が健闘を称え合う姿が印象的だったということである。しかし、大正14年~15年にかけての公式戦では盛岡中学に敗退。依然として盛岡中学は大きな壁として立ちはだかったのである。

 また、この試合での勝利後に初めて「凱歌」を披露した。この年の春から正式に応援団組織を編成し、各種応援歌を制定し練習を重ねて来たのであった。


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牛乳箱 木箱

6才ぐらいまで数年間だと思いますが、埼玉県の大宮に住んでました。

その頃の記憶にある森永の牛乳。

毎朝、配達されていました。

黄色の箱が記憶に残ります。

ヤフオクで見つけましたが、入札を迷ってます。

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2017年8月30日 (水)

陣場台熱球録 13

福中卒業後、仙台高工に進学し野球部主将として活躍していた小向八郎が大正12年の春に帰省した。

目的は福中野球部後援会の実力者である国分喜一を説得して、福中野球部をを全国大会の予選に出場させるためであった。

小向の熱意を感じた国分は、千浦家光、十文字長吉、古館末太郎などの後援者を集めて
東北予選出場を伝えた。

すぐに学校当局の了解を得て、大会本部に申し込んだが締め切りが過ぎていたために出場を果たせなかった。

次年度へ向けて福中生を鍛えようと思い、8月21日に行われた八戸沢田呉服店主催の「五郡連合実業野球大会」に、辻村勘治主将他の福中選手を引き連れて参加し見事優勝を飾った。

実質的に福中生主体のチームであり実業団相手に優勝したことで大きな自信となった。

実業団大会へは「日ノ出クラブ」というチーム名で出場した。

日ノ出クラブは、それまでのOBチームである「形水会」が名称を変えたものあり、伝統的な「H」のユニフォームを着用した記念すべき大会であった。

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上総国 山武組座操

なんのラベルか不明です。

時計でしょうか?

大日本上総国に歴史を感じます。

時代は明治と思われます。

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マリーヌ ル ペン

極右政党の党首として、日本国内で紹介されることの多いル・ペン氏。

移民問題が深刻な欧州で一定の評価を得ています。

果たして、日本のマスコミは真実を伝えているのか?

そんな疑問が出てきました。

早速、アマゾンでは発注しました。

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ニシン蕎麦

カップ麺のニシン蕎麦。

100個ぐらいまとめ買いしたことがあります。

友人と分け合って1ヶ月で消費したことがあります。

また購入しようと思いましたが、見つかりません。

製造中止になったんでしょうか。

知っている方は教えてください。

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2017年8月29日 (火)

三戸のラーメン

二戸に隣接する三戸町。

今では岩手県と青森県に分かれてしまいましたが、元々は同じ文化圏、経済圏に属してます。

二戸市内の中心部から20分ぐらいで三戸です。

奥州天台寺焼の窯元は高校の後輩。

昼食に「さんのへ川の駅」に案内されました。

とても懐かしい味でした。

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静岡 東海軒の鯛飯

約40年前の駅弁の掛け紙です。

静岡県の東海軒です。

今でも営業しておるようです。

同じような図柄の駅弁、他にもありそうですね。

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小川珈琲

北の坊ちゃんの気まぐれで朝から忙しい。

チキンレースなのは明らかとは思うが、各人がいろんなコメントを残している。

そんなことは忘れてコーヒーブレーク。

この頃は、小川珈琲がお気に入りです。

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アベノミクス

北朝鮮の行動は、チキンレースなのは見え見えだが、国防を考えるには良い機会。
現政権は、左の原理主義者から見れば許せないことらしいが、とりあえず合格点だと思う。

ネットで検索していて、アベノミクスの成功例を表にしたものを見つけた。
ここで、消費税を据え置けばさらに良し。
廃止か5%までもどしたら歴史に残る名宰相。

増税しても税収は増えないと思う。

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北の先制攻撃

北の先制攻撃>

5時58分:北朝鮮がミサイル複数発射

6時03分:テレビでJアラート速報
6時06分:北海道上空を通過

6時12分:襟裳岬東の太平洋上1180kmに落下

6時24分:安倍首相が官邸でぶら下がり会見

6時40分:菅官房長官が緊急会見


宣戦布告と同じ

2017年8月28日 (月)

栄宝堂のパン

二戸駅で購入できる栄宝堂のパン。

どうしてもたべたくなりました。

帰り道で購入しましたよ。

コーヒーや牛乳と一緒にいただきます。

価格も手ごろです。

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南部椀

ヤフオクに「南部椀=浄法寺椀」が出品されてました。

開始価格は1000円でしたが、最終的には高卒初任給ぐらいで落札されました。

もちろん入札はしましたが・・・。

あっさり敗れ去りました。

今から300年ぐらい前の製品でしょうか?

塗は、旧安代町を含む浄法寺地方で飾色は盛岡かと思います。

藩内では浄法寺椀、藩外では南部椀と呼ばれていたようです。

ぜひ、二戸市内のどこかに飾って欲しい製品です。

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二戸の宝 酒の自販機

明治期の自動販売機が二戸市に現存しています。

日本酒の自販機です。

二戸民俗資料館所蔵。

たぶん、国内でここだけかもしっれませんね。

ぜひ、二戸市に来た際は見てください。

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昭和40年代 ファンタの缶

ヤフオク検索中!

懐かしいファンタの缶を発見しました。

現在価格2500円オーバーです。

気分的には入札したいところですが、たぶん3000円越えになりそうです。

昭和は遠くになりました。

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2017年8月27日 (日)

陣場台熱球録 12話

大正10年夏に形水会は福中生との合同チームで早稲田大学と対戦した。

試合は7-8で惜敗したが、多くの地元ファンが見守る中で大健闘の試合であった。

早稲田大学は翌日には「全八戸」と対戦した。

全八戸は八戸中学生と八戸中学OBで固められたチームであった。

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安田南

高校のころ、東京の親戚から録音して送ってもらった番組。

田舎の岩手では、NHK.FMしか聴けませんでした。

その番組は『気まぐれ飛行船』

10年ぐらい続いた?

最初は片岡義夫と安田南でしたね。

安田南が病気で降板してからは温水ゆかり。

どちらも、大好きなパーソナリティーでしたね。

安田南も温水ゆかりも気まぐれ飛行船しか出演してないんですね。

安田南は若くしてなくなったようですね。

録音テープも、かなりあったはずですが、どっかに行ってしまいました❗

あればお宝ですよね✌

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時代屋の女房のロケ地

ブログのタイトルの本にもなった映画「時代屋の女房」

映画のロケ地の一つが盛岡でした。

あの心惹かれる建物は、21世紀の今は残るんでしょうか。

歴史的古民具も残したいですね。

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陣場台熱球録 11話

 
大正12年夏、福中野球部はOB小向八郎の尽力により全国大会の予選出場を決意した。

この年は残念ながら、締め切り後のために大会出場はならなかったが、一関、仙台遠征も挙行した。

「FUKUOKA」と入った早稲田カラーのユニフォームを新調した。

応援団が正式に学校から認可されたのもこの年で、初代の団長に山岡米蔵を選出した。

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古本処分

古本を少しずつ処分して行きます。

無償ですが、送料は負担願います。

このブログで順次公開します。

中には、購入したまま本棚の飾りになっていたものもあります。

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差し上げます 「ルージュの伝言」

差し上げます。

送料は負担お願いします。

モップスの追っかけをやっていたんですね。

新しい発見でした。

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2017年8月26日 (土)

台湾の駅弁

台湾の駅弁で検索して、食べてみたいと思う物を見つけました。

間違いなく美味いですよね。

台湾では、掛け紙もコレクションの対象になるのか興味があります。

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旅のお供に「カットするめ」

一見するとキャラメルと間違いそうな「するめ」です。

ワンカップを飲みながら食べたくなります。

スルメの絵柄がちょっと怖かったりします。

ネーミングもカットル。

合資会社千鳥屋商店です。

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陣場台熱球録 10

大正7年の一高野球部(旧制一高)は、早稲田、慶応などを撃破して日本野球界の王者に返り咲く。

その原動力はエースの内村祐之であった。

内村祐之は宗教学者の内村鑑三の長男で、後年はプロ野球のコミッショナーを務めた。

プロ野球の発展を願い放映権のプール制などを提案したが、オーナー会と対立して辞任した熱血漢。

大正6年には、バッテリーを組んだ中松捕手とともに福岡にやってきて、福中の臨時コーチに就任した。

福中の村田幸雄と佐藤捕手に投球術を授けた。

福中野球部は、一関中学に遠征し東北大会を制し全国大会出場を果たした一関中学に3-2で勝利する殊勲の
星を挙げた。


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蕎麦を食べに北海道へ

本来であれば北海道へ渡る時期です。

しかし、昨年の脳出血で感覚がおかしくて遠出を控えてます。

仲間はどしどし北海道へ行っているようですね。

どうしても食べたい蕎麦やさんがあります。

再び訪問できることを夢見ながら、リハビリに励みます。

それまでは、インターネットの世界で蕎麦屋巡りをします。

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2017年8月25日 (金)

海軍カレー

横須賀名物の海軍カレー。

元祖とも言える店、魚藍亭の「よこすか海軍カレー館」(神奈川県横須賀市)が2017年8月27日に閉店すると、神

奈川新聞のニュースサイト「カナコロ」が24日に報じた。

もう一度食べたかったです。

日本において、海とカレーは切っても切れない関係にあります。

かつての日本海軍で栄養補給のためにカレーがメニューとして採用され、現代の海上自衛隊では、海の上で曜

日の感覚を保つために、金曜日にはカレーが供されるのが習慣となっているそうです。

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150年前の二戸駅

明治24年に福岡駅が開業します。

今の二戸駅です。

当時の二戸地域の中心地が福岡町でした。

なので福岡停車場だったようです。

文明開化の波が二戸地方にも押し寄せました。

特産の繭や漆の輸送も、格段に増えて人口も増えたようです。

明治39年には国営化されます。

大正10年には北福岡駅に改称。

長らく北福岡駅として親しまれましたが昭和62年に二戸駅。

新幹線も停車し、東京から3時間の距離で岩手の北の玄関口として賑わっています。

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断捨離 バイク雑誌

昭和のバイク雑誌を背整理します。」

1000冊ぐらいあります。

広告を見ているだけでも楽しいです。

ガレージのさりげなく置いてはいかがでしょうか。

何かと交換しませんか。

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差し上げます 

時代屋から無料で提供です。

送料は負担願います。

地元の名アナウンサー菊池幸見の名著。

お気軽にお問い合わせください!

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時代屋の女房

ブログのタイトルになっている時代屋。

夏目雅子さんが出演した映画からいただきました。

あんな風な骨董屋さんをやりたいと思って、30年以上が経過しました。

原作も夢中になりましたが、映画の夏目雅子さんは本当に素敵でしたね。

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2017年8月24日 (木)

雰囲気の良い蕎麦屋さんの画像 

温かい蕎麦を食べたくなったでので、インターネットで検索すると、雰囲気の良い画像を見つけました。

http://fukuchanck.exblog.jp/20328916/

重要伝統建造物群保存地区に指定された佐原の街並みを形成する一つです・・との説明です。

こんなま雰囲気で食べると、二味ぐらい違いそうです。

今夜は「緑のたぬき」で我慢です。

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朝鮮飴

朝鮮飴なので朝鮮名物と思いがちですが、熊本の名産品です。

飴と言うよりは餅に近い触感のようです。

園田屋謹製ですが、現在は残るんでしょうか。

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手打ち蕎麦

手打ち蕎麦というと、何となく自分で打った蕎麦という感覚ですね。

機械で打った蕎麦に対しての、自分で打った物といいう感覚です。

辞書で調べても、機械を使わずに打った物と出ています。

しかし、蕎麦を打つ機械は明治の発明品ですが、手打ち蕎麦という言葉は江戸時代からありました。

不思議です。

『蕎麦と江戸文化』(笠井俊弥)という本には「手打ち」の語源として手討ち説をあげています。

手討ちというのは、殿様が、「無礼者そこへなおれ!」と自分で刀を抜いてみずから手を下すことです。

そこから転じて、殿様や目上の者が作る蕎麦の意味になったようですね。

別な説がありましたら教えてください。

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胸キュン ユーミーの広告

昭和40年代後半の広告?

どきどきでした。

どんな味だったか忘れました。

近くのスーパを数件探しましたが、残念ながら見つけられませんでした。

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陣場台熱球録 9

写真中央の緒方益太郎教諭は、最初の野球部長といえる人物である。

当時は引率教師と呼ばれていた。

正式に部長名の職員ができるのは大正末期からである。

緒方は、校長の非公認ながら選手を引率し八戸中学に遠征し、

5-42で大敗するとその責任をとるために丸坊主になった。


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浄法寺椀を調べてます

岩手県の南北に漆器の文化が伝わっています。浄法寺塗と秀衡塗です。

秀衡塗というと菱形の金箔と模様が特徴的ですよね。

平泉文化を花開かせた藤原秀衡の名が付いているので、古くから秀衡塗りがあったように誤解されますが、秀衡塗りという呼び方が一般的になるのは大正時代からのようです。

古くから「秀衡椀」と呼ばれている物は、なぜ「秀衡椀」の名がつけられたのかは分かっていません。

産地も特定されていないと思います。 浄法寺椀は瀬戸内寂聴尼で知られる天台寺がルーツであることが分かっています。

藩政時代には各地へ漆器を送り出した記録も残ります。

中尊寺と天台寺の宗教的関係を考えれば、同じような文様の古い漆器が存在していたことは歴史的にも何らかの繋がりがあることを暗示していると思います。

続く

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2017年8月23日 (水)

日光名物 力もち

日光の名物・貞光の力もちです。

碓氷峠熊の平近江屋?でしょうか。

近江屋は今でも営業しているようです。

今の掛け紙を欲しいです。

デザインも秀逸です。

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コンビニ販促品 ミニカー

非売品のミニカーが30個あります。

コンビニの販促品ですが、未開封です。

コレクターの方、フリマでの転売を考えている方、いかがですか。

できれば、駅弁の掛け紙と交換希望です。

よろしくお願いします。


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陣場台熱球録 8

明治39年に野球部が正式に認可され、青森県立第二中学との春夏の試合が年中行事となった。

明治末から大正10年頃にかけては、福中の象徴である「三葉の松」を「さんようのまつ」と読んで、胸にSANYOのユニフォームを採用した。 

対外試合には「三葉倶楽部」として参加し、福中の意気を示したものだった。

カシオペア歴史研究所

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かくしめのラーメン

二戸駅が北福岡駅だった時代。

蕎麦の名店として知られた「かくしめ食堂」がありました。

蕎麦の名店として知られていましたが、そこのラーメンも美味かったです。

廃業して10年以上経ちますが、あの味を忘れられません。

復活して欲しい味です。

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2017年8月22日 (火)

黄文雄『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史

先日掲載の記事「外国への修学旅行先、1位は台湾。若者に引き継がれる日台の絆」でもお伝えしたとおり、民間レベルにおいてその絆をますます深める日本と台湾。最近では鉄道を通し、両国の友好関係はさらに強まっていると伝えられています。メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』の著者で台湾出身の評論家・黄さんは、日本が台湾を統治していた時代に敷設した阿里山森林鉄路の建設秘話を紹介しつつ、当時から変わることのない日台の強固な絆を再確認しています。

【台湾】鉄道を通した日台友好の影にある秘話

近年、日台の鉄道を通した友好提携のニュースをちらほらと見かけるようになりました。以前のメルマガでも紹介しましたが、中には、西武鉄道、京急電鉄、東武鉄道、台湾鉄路4社局合同イベントなどという大掛かりなものもありました。

● 西武鉄道・京急電鉄・東武鉄道・台湾鉄路4社局合同イベント 2017年1月27日(金)より「日台縦断!鉄道スタンプラリー第2弾」を開催します!

今年で開業10週年を向かえる台湾の新幹線「高鉄」は、日本の新幹線技術を用いて造られたことはよく知られています。2015年には、乗客の伸び悩みで経営破綻の可能性がありましたが、公的支援を得ることで危機を乗り越え、現在は「公有民営」となっています

● 台湾新幹線、開業10年で記念式典 日本の新幹線技術を採用

日本と台湾の間の人的交流は年を追うごとにさかんになり、2016年には年間600万人以上(台湾から日本へ429万人、日本から台湾へ200万人)の観光往来がありました。とくに、台湾の人口は2,300万人ですから、台湾人のじつに6人に1人が訪日したことになります。

● 4/27 戎総領事の講演「九州と台湾の強固な信頼関係」

もちろん日本からの訪台も増え続けており、とくに九州・山口から台湾への高校生修学旅行は2014年に12校・1,200人だったものが、2016年には32校・5,000人にまで拡大、海外の修学旅行先としてはトップになっています。

600万人以上の観光往来のなかで、とくに鉄道関係は「人気沸騰」の一言に尽きます。日本・台湾の両国で同好会までつくられ、鉄道旅の推進役ともなっています。

台湾で人気の鉄道といえば、世界三大登山鉄道として有名な阿里山鉄道があります。戦前から阿里山は、日本の技師・小笠原冨二郎が発見した樹齢3,000年のタイワンヒノキが有名で、神木とされてきましたが、戦後はあまりに観光客が多いため腐敗が進み、1998年に切り倒され、現在は二代目の神木になっています。

阿里山鉄道は、日本統治時代に活躍した河合鈰太郎(1865~1931)という人物の貢献によってできたものでした。

日本領台初期、日本は「地球最後の秘境」でもあった台湾の自然、民族、風習などを探検・調査していきました。その結果、台湾の地勢、地貌、自然と社会の姿が、次第に明らかにされていきました。

この時期の日本軍人や学者らの台湾探検・調査は、台湾のみならず、東アジアと東南アジアの自然と社会を研修するための基礎となり、その後、近代産業を育むための資料として、多大な歴史的貢献を果たしています。たとえば、シロアリなどの害虫研究が成功しただけで、産業が数倍にも成長。こうした実例は非常にたくさんあります。

そのひとつが、森林研究だったわけです。阿里山の原始林には多くの巨木が存在し、檜の宝庫でもあることは知られていましたが、木材搬出の方法が見つからず手つかずのままにしてありました。ちょうどそんな時、ドイツに留学していた河合鈰太郎と、外遊中の後藤新平が出会います。そのとき河合は、後藤に台湾の森林開発についての献策を語りました。

これを機に、河合博士は帰国後の明治36(1903)年、後藤に請われて台湾林業行政に参画することとなり、阿里山の実地調査に乗りだしたのです。阿里山森林資源開発のために河合がまず検討したのが、山岳鉄道の利用でした。河合鈰太郎は、林学者、ことに森林利用学に精通した人物です。東京帝大農学科を卒業後、林学博士号を取得。ドイツとオーストリアに留学、森林利用学を学び、後の日本森林利用学の権威となりました。

帰国後の河合は、東京帝大農学科の教授も務めるとともに、台湾総督府民政長官であった後藤新平に招かれ、渡台した際に阿里山の森林鉄道敷設に尽力したのです。

河合の学問的関心は広く、漢学と独語が堪能で、文才もあり、晩年になってからは哲学も研究しました。専門分野の林学では第一人者で、山林史にも興味を持っており、『測量学』『木材識別法』などの著書があります。

彼は、日本産主要広葉樹の肉眼識別法、木材強度および物理的性質の研究をはじめ、森林開発・利用に新境地を開きました。
そもそも阿里山森林の発見は明治29年11月13日でした。竹山撫墾署長、斉藤音作、本多静六林学博士が率いる27人の新高山(モーリス山)登山隊が、東埔から八通関ルートを通って登頂する途中に、本多博士は台湾紅檜の標本を採取しました。

それを東京に送り、東京帝大松村任三教授に研究してもらった結果、明治34年に新種として認定され、「台湾紅檜」と命名されたのです。その後石田常平が阿里山原住民の引率で、広大な阿里山の檜木大森林を発見しました。これに驚いた総督府は、翌年から石田に加え小西成幸、小笠原冨二郎、小池三九郎の4名を調査に出したのです。

さらに明治35年、河合鈰太郎の実地調査を委託し、阿里山開発の計画を作成したことから、樹高36メートル超、幹周り18メートルにも及ぶ長大材が出ることが分かったのでした。

具体的には、海抜2,000メートル以下は暖帯林で、それ以上は紅檜、2,300メートルは扁柏と紅檜の純林、2,700メートルには栂、高根五葉が混じったような状況で原生していました。

前述の、小笠原冨二郎が発見した阿里山神木は、樹高50余メートル、地面部樹幹34メートル、直径6.6メートルを超える推定樹齢3,000年の巨木でした。

総督府は約160平方キロメートルの檜の大森林を入念に調査・計算しました。その結果、檜の巨木のなかには台湾紅檜15万5,783本、台湾扁柏15万2,482本もあると判明。以来、阿里山森林の巨木伐採が始まったのです。

阿里山鉄道は、その木材運搬のために建設されたものでした。はじめ藤田組が林業調査と鉄道敷設の計画起工を請け負いましたが、明治41年1月、工事半ばにして中止となり、その後の事業は総督府に継承されました。そしてついに、大正4(1915)、総督府の手によって本線の開通となったのです。

明治39年~45年の6年をかけて、河合を中心に鉄砲水や資金難の困難を克服しながら、全長72キロ、高度差2,160メートルに及ぶ日本初の山岳(登山)鉄道をみごと完成させたのでした。これは当時としては、世界三大登山鉄道のひとつとして話題となったほどの大事業でした。

河合はその後、台湾北部の太平山や満蒙の森林開発事業にも携わりました。昭和元(1926)年に東京帝大退官後は、木炭研究で煉炭を発明し、その健在ぶりをアピール。昭和6年に逝去した際には、訃報が阿里山鉄道起点の大都市嘉義にも伝わり、官民あげての盛大な追悼式が行われたほどでした。その3年後、河合の功績を讚え、阿里山寺(現在の慈雲寺)境内に「琴山河合博士旌功碑」が建てられました。

阿里山鉄道は木材を運搬するために敷設されましたが、日本は単に伐採するだけではなく、保護にも貢献しました。日本時代の森林保護の実態は、当時の小学生の「論文集」でも見ることができます(東京新宿区の台湾協会文庫にも保存されています)。

国民党政府時代、台湾の自然は次々と破壊され、木が盗伐されていきました。日本統治時代のような保護政策などを行おうとしなかったため、そのために禿山が増えてしまいました。

中国人は森を破壊しましたが、日本は共生の道を選んだのです。もしも阿里山鉄道に乗る機会があれば、沿線の美しい木々を眺めながら、日本人の先人たちの偉業に思いをはせていただければと思います。

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二戸駅前 きんじ

しばらく行っていない蕎麦屋さん。

体調が良ければ週末に行きたいと思います。

捏ね鉢の塗り直しをお願いされていますが、未だに未完成。

蕎麦も美味いですが、ラーメンもお勧めです。

http://www.geocities.jp/michinokumeet/

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蕎麦味噌

子供の頃に、囲炉裏端で作ってもらったおやつが「蕎麦味噌」です。

蕎麦を捏ねて、味噌をつけて焼いたもの。

いま、居酒屋に行けば高級料理です。

囲炉裏端では、芋なども灰に入れながら焼いてました。

そんな生活は、ある意味で贅沢です。

画像は、飲食店で提供される高級な蕎麦味噌です。


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四季の里

関東の知り合いが二戸にやってきます。

蕎麦を食べたいと言うことなので「四季の里」を教えておきました。

実は、本来は蕎麦が主食の地域ですが、世代よっては蕎麦が苦手な人が多いようです。

その理由は、子供の頃に毎日蕎麦を食べていたからかもしれません。

亡くなった父親がそうでした。

でも、私は蕎麦好きです。

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蔵しっくかしわ飯

ほんの少し前ですが、二戸駅で売られていた駅弁がありました。

現在は残念ながら見かけません。

インターネットで検索したところ、下記のサイトで紹介されているのを見つけました。

http://kfm.sakura.ne.jp/ekiben/03iwate.htm

蔵しっくかしわ飯でした。

どうにか復活して欲しいものです。

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読書 アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない

ブラックジョークを一つ。

「アメリカが外国に戦争をしかけるのは地理の勉強をするためだ」

現在のところ、彼の国に対抗できる強国は無い?。

21世紀の不幸は、彼の国民の外国に対する無関心?。

彼の国は実は「キリスト教原理主義」の国?

しかし、彼の国の強いところは世界中から新しい血(知)を受け入れて新しいものを作り出そうとしている事。

敵を知り己を知れば百戦危うからず!!

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Uuuuuuu




2017年8月21日 (月)

東洋汽船公司の広告

戦前の東洋汽船の広告です。

旅心をくすぐります。

色合いがすばらしいです。

実物があれば欲しいですが、某古書店では2万円でした。

http://app.cocolog-nifty.com/t/app

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相馬屋のかりんとう

二戸地方は、各市町村で名物のカリントウがあります。

本日は二戸市福岡の相馬やさんのカリントウを買ってみました。

ほどよい甘さでした。

お茶やコーヒーとの相性も良いです。

価格も手ごろ!

地元のお菓子屋さんを残したいですね。

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フランスに渡った漆器

浄法寺の「ぐい呑み」がフランスに渡っています。

20世紀初頭から、日本の漆芸はフランスでも人気です。

この器をフランスで広めている方は、現地に嫁いだ日本人です。

ぜひ、ヨーロッパに広がって欲しいものです。

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明治期 キャラメル広告

明治期の森永製の菓子類です。

服装が明治を物語っています。

現在だったら、ある団体から不買運動が起こるかも知れませんね。

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片口の産地

数ヶ月前に片口の産地を鑑定依頼がありました。

画像だけなので、何ともいえませんが、おなじような形は浄法寺にも残る形です。
川連や仙台周辺にも残る形のように思います。

塗り方は、何となく仙台方面かなと思います。
体系立てて調査してみると面白そうです。
皆さんのご意見を教えてください。
ここ30年ぐらい収集していますが、同じようなものはあります。

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2017年8月20日 (日)

氷コップ

今年の浄法寺地方は冷夏で、カキ氷と言う気分では有りません。

子供の頃かは、なんとなく氷コップが好きでした。

そのため、リサイクルショップなどで見かけると思わず買ってしまいます。

一時は200個ぐらいあったのですが、今は10個ぐらいです。

駄菓子屋で食べるかき氷。

昭和の味でしたね。

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ヒラヤマミキ 真夏の出来事

平山美紀と間違えて購入したレコード。
ヒマラヤミキでした。

でも、その招待は意外な方でした。
夜霧のハウスマヌカンのヒット曲がある方でした。

こんな発見も楽しいですね。

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陣場台熱球録 7

 明治43年夏に早稲田大学が東北遠征を企てた。8月5日に福中グランドにおいて「形水会」と対戦した。試合は3-8で敗れた。同じ日に福中現役生も対戦したが0-14で大敗した。

 形水会は福中卒業生のクラブチームで、福中の練習相手であった。時には現役選手との混合チームを編成し各地の大会に出場したりした。 「形水」とは、郷土の英雄・相馬大作の号から採用されたものである。形水会は大正10年頃まで存在した。

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ホンズナシ

私の住んでいる岩手県北部(青森県南も同様)では、「ホンズとは」頭の記憶能力、知能を意味している。
  例えば買い物を頼まれて、間違ったものを買ってきた場合などに「ホンズナス!」と言ってしかられたりする。

  「ホンズナス」の”ナス”は、「無し」が訛ったものだ。
それでは「ホンズ」の語源は何であろうか?。
  元々は、京都で使われていた言葉で「本地」である。
  本地とは、「本性・本心・正気」を意味しているようだ。
  「酔いてもほんぢを忘れず」と古典にも登場する。
そう言えば酒を飲んで意識が無いことも「ホンズ」を落とすと使ったりもする。

続 く

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平山三紀

夏は来ると聴きたくなる平山三紀。

「真夏の出来事」は、個人的には「夏」歌では最高傑作と思う。

なんとなく70年代してますね。

このアルバムに収録されている、他の曲もまさしく70年代的です。

友人に預けてある117クーペに乗りたくなりましたね。

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2017年8月19日 (土)

ザ・ピーナッツ

BS放送を見ていたら、ザ・ピーナッツが紹介されてました。

ぎりぎり、リアルタイムで彼女らを知っている世代になりました・

あまりにも偉大過ぎます。

レコードも、たぶんそれなりに所有しています。

昭和を語る上で忘れられません😃

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不思議な文様

浄法寺地方の旧家から、不思議な紋様の丸盆が出てきます。

一般的には、朽木盆と呼ばれるモノです。

なぜか、同じようなモノが滋賀県に残っているようですね。

体系的に調べた資料があれば読んでみたいです。

文様は、菊の花びらのようです。


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陣場台熱球録 6

 記録に残る最初の試合は明治35年(1902)7月の八戸遠征で戦績は不明だが大敗だったらしい。翌明治36年(1903)5月29日には、福中グランドにおいて八戸中学(当時は青森二中)と対戦し2-7で敗れる。

 明治37年(1904)5月には八戸遠征をし、この試合で6-42という大敗を喫した。引率の緒方教諭が責任を取って丸坊主となった。この試合は岩手日報にも、「ベースボール競争 前日曜日、当中学校生徒緒方教諭引率の下に八戸に於いて同校生徒と其技を競いしが遂に30点の敗を取り帰校せり」と書かれている。明治37年(1904)10月には、福中グランドで盛岡中学と青森二中(八戸中学)が練習試合をした記録もある。
 それから2年後の明治39年(1906)にも八戸で試合が行われた。よほど明治37年(1904)に42点取られた試合が悔しかったらしく、猛練習を積んで試合に挑んだ。この際に最初の応援歌が即席でつくられる。メロディーは当時の流行歌「アムール川の流血」から拝借した。試合はまたしても敗戦だった。
 秋田県の強豪大館中学が、岩手県にその相手を求めて遠征することになった。
 明治42年(1909)のことである。この時の大館中学は、当時「全国の三傑」と呼ばれ東北球界では無敵を誇っていた盛岡中学を唯一破ったチームであった。福中にも試合の申し込みがあり、天下の強豪校を迎えるとあって対策を考えた。
 盛岡中学出身で早稲田大学に進んでいた野々村納氏を臨時コーチに招き本格的な練習をして試合に備えることとなった。8月に対戦した大館中学との試合は2-5で敗れたが、天下の強豪校と互角の試合ができたと言うことで選手の自信につながった。

 野々村納氏は、明治37年(1904)から盛岡中学の投手として活躍した人物である。当時、盛岡中学が対戦した八戸中学、大館中学、遠野中学、仙台二中などをことごとく撃破した岩手県球史に残る名選手で、盛岡中学卒業後は早稲田大学に進み遊撃手として活躍した。

 明治43年(1910)8月には早稲田大学二軍が東北・北海道遠征を企てていることを知り、野々村納氏を通して練習試合を申し込んだ。試合は0-14で大敗した。この時には、OBチームの「形水クラブ」も挑戦したが3-8で敗れた。「形水クラブ」は、2日後に行われた盛岡中学の試合では1-19で大敗。それほど当時の盛岡中学は強かった。

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貯めて使える。便利でお得な楽天スーパーポイントで楽しさアップ!


大正時代の器

大正3年に購入したと書かれていた器。
100年経過したんですね。
これでいただく紅茶や珈琲は、きっと美味しいはです。
これまで、何人に使われたんでしょうか。
興味は尽きません。

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にしん蕎麦

北海道の友人からニシン蕎麦の写真が送られてきました。
おいしそうです。
蕎麦づくりの弟子入りしたいですね。

森町 イカ飯

中学生の時に修学旅行で北海道へ。

森町でイカ飯を食べた記憶があります。

ネットで検索したら、森町のイカめしを見つけて購入。

懐かしい味でした。

自宅でも作れそうな感じですが、長年の経験に培われた味には勝てないでしょう。

価格も手頃です。

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2017年8月18日 (金)

牛タン焼き定食

数日前の昼食は久しぶりの外食。

牛タン定食を美味しくいただきました。

塩味、タレ味とも美味かったです。

場所は盛岡市内。

お勧めのお店があれば教えてください。

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「爆発する北国のパワー」

タイトルが、北朝鮮問題のような表現だが、古代東北地方の話。

安部貞任を代表とする「北魁」達は、北国のパワーと文化を背負って大和軍と対決する。
この12年間にわたる戦いは、俗に「前九年の役」と呼ばれる。
今から1000年ほど前の東北地方の話だ。

この12年にわたる戦いは何だったのであろうか。
知る限りではその意味を明確にしたものは無い。
「北の野蛮な奴らを滅ぼした」という説明だけだ。
果たして彼ら安部一族は何者だったのであろうか。
「北国の先住民の王者」という説明も見受けられる。では、その先住民とは何者なのであろう。
間違いないことは、安部の文化とパワーを土台として「平泉」文化ができたということだ。

安部一族の文化的評価も分かれている。平安文化にも優るとも劣らないという説もあれば、猿のように野蛮だという説もある。この不思議な安部一族は、北国の歴史を正しく評価するキーワードでもある。

もしかしたら前九年の役は、北のパワーと南(西)のパワーが衝突したと考えるべきかもしれない。
このパワーは、文化とも言えるし、歴史や風土と置き換えることもできる。
彼らの歴史を、京都の基準で見るからおかしいことになる。

続く

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トッフィーキャラメル

懐かしのキャラメル広告。
昭和20年代後半から続々と発売されたキャラメル新製品。
なかでも英国風のトッフィーキャラメルは、広告をうまく使って評判を得た。
英国バッキンガム宮殿の近衛兵の姿がデザインされたパッケージにちなんで、等身大のブリキ看板を店頭に置き、大々的に人目をひく作戦に出たのだ。
また、本物そっくりの巨大なロボット象「トッフィー君」が全国を行脚し、各地のパレードのにぎわいがマスコミでさかんに取り上げられた。
このトッフィー君は全国162都市をめぐり、その行程は約2万キロ。1年間に及ぶキャンペーンで、大きな宣伝効果を上げた。
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業務用 1kg入 どうぶつ探検ランドキャンディ 1キロ×60袋 マルエ製菓 1袋約220粒前後入り ★代引き不可【みぞた商店】

懐かしの紙モノコレクション ジンジャーエール

明治の紙モノです。

ジンジャーエールですね。

舶来品だと思っていましたが、国産でした。

神戸発祥でした。

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2017年8月17日 (木)

政実の野望

今となっては昔のことである。
400年前の天正年間、関白秀吉の天下に反旗を翻す田舎武将がいた。
名前は九戸政実。
北奥随一の武将である。
事の発端は南部一族の相続問題である。
しかし、いつの間にか天下人の秀吉に対する反抗と言うことになった。
前の年には、小田原の北条氏が豊臣の軍門に降り秀吉に反抗する者は誰も居ないはずなのである。

「気に入らない」というのが政実の気持ちだったのかもしれない。
昨日まで秀吉の名前を知らなかったような者までが秀吉に頭を下げている。
何かがおかしい。九戸党5000人で秀吉軍10万人と対決することを決意する。

天正19年8月25日、九戸対豊臣軍による中世最後の戦が始まった。
豊臣軍は徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政など名だたる武将10万人で攻めてきた。
姉帯城、根反城の九戸側の城は奮闘むなしく落城した。


政実は浪打峠(末の松山)を固めた。
秀吉軍は北へ一歩も入ることはできない。
思いもかけなかった展開にあわてた秀吉軍の蒲生氏郷と浅野長政は、それから卑怯な戦法ばかりを使う。
まず、政実の実弟・中野修理を九戸城攻めの先頭に立たせる。
九戸城の包囲には北奥の武将を配置する。
実際に命をかけて戦うのはかつて九戸の仲間だった連中だ。

続く

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女子マネジャー死亡、「呼吸」誤解? AED使ってれば

  新潟県の加茂暁星高校の野球部でマネジャーをしていた女子生徒(16)が練習直後に倒れ、今月5日に死亡した。家族によると、生徒は倒れた時に心室細動を発症していた。自動体外式除細動器(AED)を使えば、救える可能性がある症状だ。AEDの設置が広がっても突然死が後を絶たない背景には、AEDの性能についての理解が深まっていないことや、卒倒などの場面に遭遇すると、落ち着いて使いこなせない実態がある。

 

■認知度低い「死戦期呼吸」

 

 「AEDを使ってほしかった。助かったかもしれないと思うと、つらくて悔しい」。生徒の父親(42)は朝日新聞の取材に苦しい胸の内を語った。明るくて面倒見のいい性格。部活が大好きだったという。

 

 生徒は7月21日午後、練習があった野球場から学校まで約3・5キロを走った後に倒れた。野球部の監督は「呼吸はある」と判断し、AEDを使わずに救急車の到着を待った。

 

 しかし、その呼吸は、「死戦期呼吸」というものだった可能性がある。心停止の状態になっても、下あごだけが動いたり、しゃくり上げるようなしぐさをしたりして、呼吸をしているように見えることがある。生徒が搬送された新潟市内の病院の医師は「心室細動が起きていた」と生徒の家族に説明したという。

 

 AEDは、心臓がけいれんしたような状態(心室細動)になり、血液を送り出せなくなっている状態を、電気ショックを与えて正常なリズムに戻すための機器だ。校内のAEDは、生徒が倒れた玄関に近い事務室の前など計3カ所あった。加茂署によると、病院に運ばれた生徒は今月5日、低酸素脳症で死亡した。

https://www.youtube.com/watch?v=mZ76WIPv0bA

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 日本救急医学会の指導医の太田祥一医師は「死戦期呼吸と普通の呼吸とを見分けるのは、一般市民には難しい」と指摘する。死戦期呼吸の認知度が低いことも、AEDでの素早い処置に思いが至らない要因の一つとみる。

スリー・ディグリーズ

朝のラジオから懐かしい曲が流れました。

40年以上前に、カセットテープレコーダーに録音して聞いていたのを覚えています。

レコードを買えるようになってから、レコードを集め始めたのですが、

平成に入り、レコードが不要な人が増えて、いつの間にか1000枚以上集まってきています。

いつか、みんなでゆっくり聴きましょう。

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鶏飯

比内鶏の鶏飯でしょうか。

大館駅前の花岡旅館です。

現在も店名を変えて営業しているようですね。

駅弁を食べながら、鉄道の旅をしたいですね。

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2017年8月16日 (水)

古式浄法寺椀で食べる蕎麦

伝統的な浄法寺椀。

古い時代の秀衡椀に通じるモノがあります。

二戸市の居酒屋「一生」では、古式浄法寺椀で蕎麦を提供してくれます。

ぜひ、漆器で蕎麦を食べて欲しいです。

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【文化講演会】コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾

北朝鮮とチャイナの不穏な動きが活発ですね。

そろそろ、日本人も考え直さなくてはいけない時期です。

いろんな情報に接して、何が自分のためになるか考えたいですね。

そう思いながら、youtubeを見ています。

https://www.youtube.com/watch?v=x9hkrOFS6aU

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大阪 水了軒の駅弁

昭和39年の駅弁掛け紙です。

大阪の水了軒は今でも仕出し屋さんとして営業しているようです。

当時とおなじような弁当はあるんでしょうか。

興味は尽きません。

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天ぷら月見蕎麦

地元の浄法寺で、ワンコインで食べられる「天ぷら月見蕎麦」。

意外と好きな味です。

出汁は煮干しと鶏ガラ?。

基本的にシナ蕎麦と同じ出汁です。

でも、ひとつだけ注文があるとすれば、蕎麦の器は漆器にしてほしいこと。

陶器だと、器が熱くて持てないのです。

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杉浦日向子さんの名著

同世代の杉浦さんの本を読みあさっていたことがあります。

20年くらい前に、蕎麦関連で古式浄法寺椀を使っていただいたことがあります。

浄法寺にも興味を乗ってくれてましたので、もう少し元気であれば浄法寺にも来てくれたことでしょう。

早くに亡くなったのが残念です。

江戸文化も彼女の著書で興味を持ちました。

いつか、蕎麦を食べながら日向子さんを語りましょう。

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2017年8月15日 (火)

陣場台熱球録 4

 旧制福岡中学の初代校長・青木欣四郎は、南部藩槍術師範の家柄で下斗米将真(相馬大作)の大ファンであった。福中開校と同時に福井県の武生中学から赴任してきた。福岡中学開校を聞きつけ自ら志願しての赴任であった。

   福中開校と同時に、生徒間で野球が行われたが校長は西洋のスポーツということで公認しなかった。青森二中(八戸中学)との対抗戦に出場した生徒を停学処分にしたりしたが、生徒の野球熱はやむことはなかった。

    しかし、明治39年に前東京帝国大学総長・山川健次郎博士が福中で講演し、「学生は大いにスポーツをやるべきだ」との訓辞をいただき野球部を正式に公認した。
         

  後年は、野球の研究のためにルールブックの原本を取り寄せて研究する田中啓一郎などの野球部員に感心し、ポケットマネーから部費を捻出し、福中野球部の礎を築いたのであった。
         

  「どうせやるなら天下一を目指せ!」口癖であった。

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サイコロキャラメル

昭和の包み紙。

当時の世相を反映してますね。

年代は、昭和40年代後半でしょうか。

価格も10円です。

処分する紙モノ有りましたらご連絡下さい。

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我は海の子

なぜか今は3番までしか歌われないそうです。

名歌詞だと思いますけどね。

1.

われは海の子 白浪
ぐ磯辺の 松原に
たなびく 苫屋(とまや)こそ
我がなつかしき 住家
(すみか)なれ

2.

生まれて潮に 浴(ゆあみ)して
を子守の 歌と聞き
千里寄せくる 海の気を
吸いて童と なりにけり

3.

高く鼻つく 磯の香
不断の花の かおりあり
なぎさの松に 吹く風を
いみじき楽と 我は聞く

4.

丈余ろかい 操りて
行手定めぬ 浪まくら
百尋千尋 海の底
遊びなれたる 庭広し

5.

幾年ここに きたえたる
鉄より堅き かいなあり
吹く塩風に 黒みたる
はだは赤銅さながらに

6.

浪にただよう 氷山
らば来れ 恐れんや
海まき上ぐる たつまきも
らば起れ 驚かじ

7.

いで大船を 乗出して
我は拾わん 海の富
いで軍艦に 乗組みて
我は護らん 海の国

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2017年8月14日 (月)

中村輝男 

日本が台湾を統治していた時代に、彼は志願兵として日本の軍人になった。
そのとき名前は「中村輝男夫」である。
       

台湾アミ族出身で、本名をスニヨンと言った。生まれれたのは大正8年(1919)である。         

中村輝男は日本陸軍の南方作戦で高砂義勇隊一等兵としてモロタイ島で戦った。  日本の敗戦後、台湾にやってきた国民党政府は戸籍整理を行い、本人が知らないまま「李光輝」と名付けられた。

彼は敗戦を知らずに戦い続けた。
タイ島の密林の奥で逃亡生活を送り、ついに発見された時は57歳になっていた。発見されたときに最初に発した言葉が、「ニッポンテイコクリクグンウットウヘイナカムラテルオ」だった。

故郷の台湾に戻った時、妻・李蘭英(日本名・中村正子)は生活のために51歳の農夫と再婚していた。三角婚姻である。その第二夫(黄金木)、そして子供たちとの葛藤の後に、彼は妻と子供たちと一緒に暮らすことになった。

日本国民として天皇陛下に拝謁して故郷に凱旋したいという思いが、中村輝男にはあったのだろうが、日華平和条約で台湾出身者は日本国籍を自動的に離脱した格好になっていた。

更に帰国した昭和49年(197412月は日華団交後であり、台湾との国交は閉ざされていた。そして台湾では戒厳令の真っ只中であり、日本政府は「筋を通すこと」よりも「波風を立てないこと」を選択した。

続 く

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ウニ丼

北海道の友人から、ウニ丼の写真が送られてきました。

食べたいです。

日本に生まれて幸せです。

産地によっても、たぶん味が違いますね。

どこの産地が美味いんでしょうか。

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キリンレモンのポスター

ヤフオクで見かけたポスター。

開始価格12000円。

程度も良さそうなので、入札を考えています。

浮世絵に通じますね。

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陣場台熱球録 5

 明治39年6月、東京大学総長を退任したばかりの山川健次郎博士が田中舘愛橘博士の郷里を見たいとのことで来福された。その際に福中で講演し、「学生は大いにスポーツに励むべし」との言葉をかけて下さり学校側も野球部を渋々承認した。 「勉学も疎かにしない」事が条件だったらしい。この条件により生徒間には野球をやりたいために今まで以上に勉学に励むという副産物を生んだ。

 「私がなぜこの町に来たのか解るか。この町からは田中舘愛橘君が出ているんだぞ。田中舘君がどんなところで育ったか知りたくて来たんだ。君たちも田中舘君のようにしっかり勉学に励む事だ」と熱弁した。

         山川健次郎は会津藩白虎隊出身の日本物理学の開拓者で、田中館博士の直系の師でもある。日本で最初に博士号を授与された人物で、明治期の薩長政府の干渉をはねのけ「学の独立」を守った公選制では初代の東大総長だ。田中舘博士より2才程年長である。三段論法的に行けば、福中野球部は田中館博士によって正式に認可されたことになる。

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幻の西郷隆盛写真かも

古代よりカシオペアの地は、一言でいえば中央政権に対する抵抗の歴史です。
古くは爾薩体の族長・伊加古が有名です。伊加古は、最近脚光を浴びている阿弖流為と並び称される古代みちのくの族長です。
平泉の奥州藤原氏につながる安部貞任の一族も、元々はカシオペアの大地を本領としていたようです。
カシオペアの大地を流れる安比川、大字名に見られる安比はその名残とも考えられます。
彼らは天台寺を造るほどの文化的教養を持っていたといわれています。
最終的に平泉の繁栄を築いたのは「安比」の血でした。

中世になると九戸政実が出現します。
政実は豊臣秀吉が国内を統一するにあたり最後に抵抗した戦国武将です。
浅野長政や蒲生氏郷といった一流の武将に対して一歩も引かなかった強者でした。

そんなカシオペアの強者たちですが、実は中央に対する抵抗ばかりではなく開明的な進取の精神を持ちあわせていました。
呑香稲荷神社の神官小保内孫陸もその一人です。
その孫陸の子である定身は、天保5年(1834)に生まれました。
成長と共に盛岡に出て国学を学び、安政3年(1856)23歳の時に江戸へ勉学に登ります。

この頃は尊王攘夷論が盛んでした。定身もまた勤王の志あつく、志士の間を往来し多くの士と交りを結ぶ機会を得るのでした。
特に長州藩の久坂玄瑞や江戸の安積五郎、川本正安と交遊が深くなったのはこの頃のことです。
江戸で学んだ定身は安政6年の秋郷里に帰ることにしました。26歳の時です。

これより先、安政5年(1858)、長州の小倉謙作、松島剛蔵が福岡にやってきます。
小倉は萩の俊才で、吉田松陰や桂小五郎(木戸孝允)の親友であり、定身とも知友の間柄でした。
小倉は孫陸と計って福岡の青年士族を集めて結社をつくり、これに会輔社と命名しました。
これは論語の「文ヲ以テ友ト会シ、友ヲ以テ仁ヲ輔ス」から引用したものでした。
当時の社員は14名、社長は孫陸と岩舘民弥の二人で、現存する茶室の槻蔭舎が会場でした。
小倉は異様な熱心さで経文を講じたと伝わっています。

続 く

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2017年8月13日 (日)

陣場台の熱球 3

 小保内弘四の祖父は小保内熊太郎で号を東泉と言った。熊太郎は会輔社の創立者小保内孫陸の弟である。熊太郎には子供が無く兄の子である喜代太を養子とした。喜代太は小保内定身の弟である。         

弘四は明治11年(1878)に生まれた。弘四が生まれた頃の喜代太は、会輔社の教師として化学・洋算などの新しい学問を近隣の若者に教えていた。弘四も岩手師範学校に進み教師の道を目指した。岩手師範学校に通った時期は、ちょうど盛岡中学と岩手師範学校の対抗戦が活気を帯びた時期である。自身も野球に熱中したようだ。

続 く

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(開校当時の想い出を語る小田島権五郎氏)

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コカコーラの箱

コカコーラの箱。
コレクターズアイテムになってしましましたね。
昭和を演出するには必要なアイテムです。
時代屋的にはたくさん集めたいですね
瓶コーラを飲みたくなりました。
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天台寺 聖観音立像

二戸市浄法寺町にある八葉山天台寺。

平安末期には存在していたと思われる、謎の多いお寺です。

今東光や瀬戸内寂聴に縁のある寺としても有名です。

天台寺で保管してある聖観音立像は、鉈彫りの仏像として、

マニアの間では知られているそうです。

昨日の、某ラジオ放送で知りました。

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2017年8月12日 (土)

ワンタン麺

着実にファンが増えている「一力食堂」のワンタン麺。

最高気温20度なので、美味しくいただきました。

子供の頃から食べ慣れている味です。

値段も500円とお手頃ですね。

豪華なラーメンよりも普通の(地元でいう)ラーメンが良いです。

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紙モノ 伊勢国米原商店 饂飩

伊勢国鈴鹿郡米原商店の饂飩です。

浮世絵に通じる芸術品ですね。

今でも米原商店はあるんでしょうか。

知っている方は、ぜひ教えて下さい。

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二戸駅改名30年

二戸駅に名前が変わってから30年だそうです。

物心がついたころから「北福岡駅」でしたので、北福岡駅が懐かしいです。

でも、一般的には北福岡では九州と間違われますね。

IGRで、一戸、二戸、三戸と続くのも良いですね。

東京を起点とすると、十和田湖観光には最も便利な駅ですよ。

ぜひ、二戸駅をご利用下さい。

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ココアシガレット

子供の頃に実際に購入して食べました。

20円ぐらいだった記憶があります。

煙草が肩身が狭い現在では、たぶん販売していないと思います。

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2017年8月11日 (金)

樋口季一郎

樋口季一郎の名は、あまり知られていないかもしれません。しかし彼は、まさに「奇跡」の事例に関与しています。

昭和13年(1938)、満洲のハルビン特務機関長在任中に、シベリア鉄道経由で欧州から逃れてきたユダヤ人難民を、満洲国に働きかけて救出したこと。

樋口は明治21年(1888)、淡路島に生まれます。家業の廻船問屋が零落したこともあって学費の安い陸軍幼年学校を経て、明治42年(1909)に陸軍士官学校(21期)を卒業し、陸軍将校としての道を歩み始めます。その後、歩兵第一連隊での勤務を経て、第一次世界大戦中に陸軍大学校に入学しています。

樋口はドイツ語など多くの言語に通じ、終生語学を得意としましたが、陸軍大学校ではロシア語を割り振られます。これは樋口の生涯にとって、きわめて重要な意味を持ちます。

なぜなら当時、陸軍の主敵はソ連であり、しかも陸大在学中(1915年~1918年)にロシア革命が起きているからです。さらに、彼が陸大を卒業した月(191811月)に、第一次世界大戦の休戦協定が結ばれます。つまり、その後の日本の歩みに重くのしかかってくる「世界革命と総力戦」の時代に、樋口はその圧力を最も鋭く受け止めざるをえなかった陸軍のロシア畑を歩むことになったのです。

陸大卒業後、情報将校としてインテリジェンスに携わり、大正14年(1925)から3年間、ポーランド公使館付武官を務めます。

当時、ソ連とドイツに挟まれたポーランドは、インテリジェンス活動に大変な力を入れており、ポーランド陸軍はソ連・ドイツ両国の暗号解読に大きな成果を挙げていました。実は樋口のポーランド在任と時を同じくして、樋口と陸軍士官学校の同期である百武晴吉がポーランドで暗号研究に取り組んでいます。これにより日本陸軍の暗号技術はきわめて高度なものとなりました。

樋口が広げたポーランドでの人脈が、このような優秀な陸軍の暗号システムを築くことになる百武の活動を支え、また日本とポーランドが暗号解読を含む機密情報をやりとりできる関係――国家間で最も探い信頼関係――を結ぶ大切な素地となったのでした。

そんな樋口が、高い知性と合理的な思考を求められるインテリジェンスという仕事に就き、多くの人的交流の機会に恵まれ、豊富な海外経験を積んだことは、きわめて重要なことだと思われます。あの時代のワルシャワや、樋口がよく訪れたウィーンなどの中欧(中部ヨーロッパ)には、近代西洋文明の最後の輝きがありました。日本人としてこのような「場」に触れた感受性の高いエリートは、翻って「日本はどうか」「日本の大切なものとは何か」を考えるようになります。強固な愛国心と共に、必ずや、日本人が失ってはならない普遍的な「人間性」や「人としての心」に目を向けることになるのです。

このような経験のなかで自らを磨いていくことで、樋口は「広い視野」と「日本人として大切にすべき人道」、そして「合理的な思考に立脚した正しい決断力」を身につけていったのでした。

昭和12年(1937)、樋口は「関東軍の情報部長」ともいうべきハルビン特務機関長になります。そしてこの地で、ユダヤ人難民救出事件――いわゆる「オトポール事件」に直面することになるのです。

当時、ナチスの迫害が吹き荒れる欧州からシベリア鉄道経由で逃れてきたユダヤ人難民の満洲への入国を、ナチス・ドイツの顔色を窺(うかが)う日本の外務省への遠慮から満洲国が渋り、満ソ国境の町オトポールで多くのユダヤ人が立ち往生していました。その窮状をハルビンの極東ユダヤ人協会から訴えられた樋口は、満洲国に働きかけて入国を認めさせ、彼らの脱出ルートを切り開いたのです。これは有名な杉原千畝(すぎはらちうね)の「命のビザ」の話よりも、さらに2年ほど前のことです。また樋口は、ハルビンのユダヤ人たちが開いたこの事件への謝恩大会で、「今日、世界の一隅においてポグロム(ユダヤ人虐待)が行なわれ、ユダヤに対する追及または追放を見つつあることは、人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」と演説しました。

これらは、当時の状況では、決して容易なことではありません。当初、満洲国や外務省が入国を拒んだのは、ナチス・ドイツと防共協定を結ぶ関係にあったことから遠慮し、現にナチス・ドイツは樋口を名指しして日本に公式に抗議していますし、陛軍内部でも樋口の処分論が高まります。

また、もう1つ忘れてはならないのは、当時日本でも「ユダヤ陰謀論」が根強く唱えられており、陸軍内部にも四王天延孝将軍などをはじめとして、それに加担する一派が存在したことです。これは事実として誤っていただけでなく、日本の進路にとって大いに問題のある議論でもありました。というのも当時、日本のマスコミ界ではとくに「ユダヤ金融資本の陰謀」を書き立てる傾向が強く、それがまた、「反英米」感情の火に油を注ぐ結果となっていったからです。さらに、そもそもベルサイユ会議(1919年)以降、「人種平等」を国是のように唱えていた日本が、本来ならば最も唾棄(だき)すべき「人種差別主義者」ナチス・ドイツと手を結ぶ下地にもなってしまったのです。

このような状況下で、「日本も満洲もドイツの属国ではないのだから、ドイツの非人道的な国策に協力すべき理由はない」と明言した樋口の勇気ある姿は、その人物の大きさと共に、日本人としての誇りを感じさせてくれます。

https://www.youtube.com/watch?v=4caq5e_toz8

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ガソリンアレイ

各地で暑い日が続いてますね。
しかし、わが地方は寒い。

さて、今日は自宅に残っているレコードの中からガソリンアレイを。

未整理のレコードが1000枚ぐらい有ります。

ゆっくり整理したいです。

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蓄音機

電気を使わずに音楽再生。

蓄音機は実は素晴らしい機械かもしれませんね。

できれば、安定の再生を考えて電動化考えてますが、詳しい方いませんか。

改造してくれる方募集!

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りりぃさんの記念碑

浄法寺の山の中に、2回やってきたりりぃさん。

昨年秋に急逝。

突然のことでした。

関係者の間で、渡嘉敷島に記念碑を建立する計画があるようです。

愛輪塾ライブ関係者としても、何らかの協力をしたいと考えてます。

http://www.geocities.jp/lily_yoji/

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陣場台熱球録 2

 明治29年頃、岩手師範学校に通う小保内弘四は福岡に帰省するたびに福岡小学校の生徒に野球を指導した。その教えを受けた児童が福中に入学し、自然発生的に野球部(同好会)を作り青森県立第二中学(八戸中学)と対抗試合を行うようになった。

  小保内弘四の父は誰あろう小保内喜代太である。福中一回生らによれば「弘四先生は子供の頃からベースに親しんだ」らしいことを回想している。当時は野球とは呼ばずベース」と呼んでいたらしい。明治11年生まれの弘四先生が、子供の頃から親しんだとすると明治10年代には間違いなく野球が二戸地方に伝わっていたことになる。

  また、二戸地方で野球が行われた最古の記録は、町長を務めた川島一郎氏の記憶によれば明治21年の福岡小学校である。

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2017年8月10日 (木)

希林

岩見沢の「希林」で食べたモツ蕎麦!
東北人も好きそうな味でした。
何度か、試作しましたが、あの味は出ません。
当然と言えば当然ですね。
通販で購入検討中。
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二戸七観音 (東回り)

いつの頃に始まったかは不明ですが、二戸地方には7月10日(旧暦)に二戸郡内の七観音をお参りする風習がありました。
日の出とともに出発し、その日のうちに帰宅したそうです。
二戸七観音は時代によって変化がありますが、中心に天台寺が置かれたことは間違いないようです。

1 天台寺 (二戸市浄法寺町)
2 中里観音 (二戸郡一戸町)
3 実相寺観音 (二戸郡一戸町)
4 鳥越観音 (二戸郡一戸町)
5 岩谷観音 (二戸市福岡)
6 朝日観音 (二戸市石切所)
7 似鳥観音 (二戸市似鳥)

7番札所は元々は飯近観音で二戸市浄法寺町にあったのですが、いつの頃からか似鳥観音に移されました。
全部を回ると距離にして50kmぐらいでしょうか。
現在の主要道路とは違い、当時の街道は山の尾根などを通っていましたから、距離はもう少し短いかもしれません。
それでもかなりの距離を一日で回ったわけですから、当時の人の脚力には脱帽です。

西回りもあったようです。

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ドイツは蒋介石の友人

ドイツ軍事顧問団が、蒋介石を支援していたのは歴史的事実であるようです。
日中戦争とは、その初期においては、日独の戦いでもあったのです。

このことを再認識しておきましょう。。

ドイツが、当時の東アジアで果たそそうとした役割は、ドイツが日中友好を仲介しようとしと生い人もいますが、たぶんコミンテルの陰謀でしょう。

日本がドイツと同盟を結んだ利点が未だに分らない!

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田楽

豆腐田楽は江戸時代には庶民に大人気の食べモノでした。
江戸と上方では串の形が違ったそうです。
画像は上方の串です。
秋になると、この豆腐田楽よりも人気食材がありました。
秋ナスです。
確かに秋ナスの田楽は美味しいですね。
二戸地方でも田楽は大人気です。
田楽で一杯いかがですか。

2017年8月 9日 (水)

片口

瀬戸内寂聴尼が、浄法寺町の天台寺に赴任したころに作った片口。

2升ぐらい入ります。寂聴尼にも利用いただいたモノです。

当時の価格は10万円。倉庫から同じものが出てきました。

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陣場台熱球録 1

 福岡(二戸地方)に野球を伝えたのは誰でいつ頃のことであろうか。結論から言うと記録は発見されていないが、当時の人々の書き残した資料などからある程度は想像ができる。

   まずは、後年福岡町長を務めた川島一郎の回想録に「明治21年に小学校に入学した。そのころにはベースボールが盛んに行われていた」との記述がみられる。また、福岡町時代に歴史民俗資料館で古老から聞き取った記録に「明治18年頃に行われた」とある。
   これらの資料から明治20年頃には既に福岡の地で野球が行われていたことがわかる。盛岡への伝来(明治17年盛岡中学で行われた?)とほとんど同じである。

    明治7年頃、東京外国語学校(後東京英語学校で東京大学に発展)の生徒で、後に札幌農学校に進んだ大島正健の回想録に「上級学校である開成学校で行っている球技を同級生で見学した。羨ましく思い、手製のバットやボールを作って球技を真似てみた」とある。大島の同級生に田中舘愛橘がいた。大島の著書にも愛橘は登場する。二戸地方の人間で「ベースボール」と呼ばれる球技を最初に目撃したのは田中舘愛橘だったことは間違いない。日本体育協会が発行した「スポーツ100年」でも、明治初期に開成学校のアメリカ人教師・ウイルソンから愛橘が直接野球の指導を受けたことが書かれている。この明治7年頃は、会輔社の小保内喜代太が東京に勉学にでた年である。当然、旧知の間柄である愛橘とも会っていたはずである。愛橘日記にも喜代太ことが書かれている。

続く

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缶詰料理

国内で売られている缶詰。

それを1000円分購入し、自宅居酒屋が楽しいです。

お勧めの缶詰料理があったら教えて下さい。

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湯桶

 何個か所有しており湯桶。一般的には蕎麦湯を入れるためのものです。

 江戸時代は蕎麦の出前の際に蕎麦つゆを運ぶ器だったようです。

 先日は、遊びに来た友人にコーヒーを淹れてコーヒーポットとして使ってみました。

 意外に好評です。

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2017年8月 8日 (火)

市電今出停留所前 本家松橋豆長

京都の豆屋さん広告。

デザインも秀逸です。

和菓子屋さんかもしれませんね。

インターネットで検索しましたが、見つかりませんでした。

情報が有りましたら教えて下さい。

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訃報

地域の歴史研究をしている先輩が亡くなりました。

いろんな事を教えていただきました。

借りっぱなしの資料も何点かあります。

聞いておきたいこともたくさんありました。

書き残すことの重要さを実感です。

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陸奥福岡物語

40年近く前に前に購入した本。
高校生当時に相馬書店から購入。
表紙に惹かれて買ったような記憶が!
この頃、何気なく読み返したら面白くて一気に読んでしまいました。
「二戸タイムス」で発行したんですね。
ともかく表紙のデザインが素敵です。

2017年8月 7日 (月)

駅弁 花岡鉄三商店

秋田県の大館駅の駅弁。

昭和初期の掛け紙と、駅弁に詳しい方から教えていただきました。

現在は「花善」として営業しているらしいです。

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昔から続く老舗を訪ねて歩くのも面白そうです。

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SLの記憶

かすかな記憶の中にある蒸気機関車。

トンネルでは急いで窓を閉めたモノでした。

SLが廃止されたのが、花輪線は昭和42年なので50年前です。

つい、この間だと思っていましたが、月日の経つのは早いものです。

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昭和広告 アンルイス

昭和50年頃の広告。

この頃の缶ジュースは1本80円ぐらい?

結構、高かった記憶があります。

どうでしたか?

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2017年8月 6日 (日)

五色豆 京都名産

京都名産の五色豆の広告です。

今でも営業しているようですね。

京都に行ったら、現在の店舗を見てみたいです。

デザインも秀逸です。

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ホヤ

昨夜、久しぶりに海鞘をいただきました。
美味しいです。
嫌いな人も多いようですが、三陸の海鞘は病み付きになります。
日本酒のつまみにいかがですか。

レトロ館

親から相続した店舗物件。

殆ど使われていません。

税金が毎年飛んで行きます。

どうせ使われないのであれば、趣味の世界に使いますかね。

昭和のレトロ世界に!

どなたか、良い企画などあれば・・・。

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2017年8月 5日 (土)

カセットテープ

昭和の末期には廃れ始めたカセットテープ。

密かに復権していませんか。

テープレコーダーも、リサイクルショップでは値上がりが目立ちますね。

CDとは違った魅力のミュージックテープ⁉

集めたい機器です。

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昭和新山

北海道の観光地として知られる「昭和新山」は、昭和18年暮れにその活動が活発化して誕生しました。
その完成は、昭和20年9月です。
その形成の過程は、アマチュア火山学者・三松正夫の詳細な観察により世に知られることになりました。

明治43年、有珠郡壮瞥村の郵便局長代理として勤務していた三松正夫は、明治新山(四十三山)の形成過程を目にします。
地震の連続、人々の目にはわからないうちに進行する大地の隆起、各火口から噴き出る白煙や黒煙、四方に降る火山灰や泥流の溢出。
その活動は、のどかな生活を一変させる大事件で、三松にとって火山に対する認識と興味、そして不安を感じさせるものでした。

明治新山の形成から程なくして、有珠郡洞爺村に一人の火山学者が現地調査に訪れます。
火山研究の第一人者で北海道大学助教授の田中舘秀三博士でした。
地元では、これを機会に火山に関するお話を伺いたいと願い出たところ、博士は快く引き受けたのでした。
博士が滞在していた三樹亭三橋旅館の広間は、臨時の講演会場に早変わり。
この講演会に三松が参加したことにより、二人の交流が始まります。

三松の回想によると、その噛んで含めるような解りやすい話しぶり、有珠山に関する学問的な説明に深い感銘を受けたととあります。
博士から、「この次に来る時には、参考書を届けてあげるよ。」という思いがけない言葉をかけていただき、その場で、自分勝手に師弟の契りを結んだのでした。
二人の交流は、博士が亡くなる昭和26年まで続きます。

続く

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カシオペア歴史研究所

2017年8月 4日 (金)

郷土史資料の復刻出版を企画

長野の知り合いが、郷土史関係の本を復刻出版しています。

150冊ほど復刻したようです。

もっとも、復刻と言っても電子書籍です。

良いところに目をつけたものです。

商業ベースは難しいかもしれませんが、書き残したいことを後世に伝えるには良い方法です。

まずは、明治期の出版物から始めます。

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カシオペア歴史研究所

島津楢蔵氏と田中舘愛橘博士

国産ガソリンエンジンの父ともいえるのが島津楢蔵さんです。
縁があって、子孫の方と知り合えました。
島津氏は田中舘愛橘博士とも交流があったようです。
一緒に写っている写真もありました。
どうにかして、二戸地方の子供たちのも伝えていきたいものです。

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カシオペア歴史研究所

2017年8月 3日 (木)

骨董カフェ

骨董のあるカフェ。
浄法寺にも欲しいです。
しかし商業的には厳しいかも。
でも、カフェはパブに通じるものがあります。
パブはパブリックの語源。
みんなに必要なものでしょう。
夢は大きく!

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カシオペア歴史研究所

紙モノコレクション

昨夜、このブログのIDとパスワードを突然に思い出しました。

1年ぶりに更新です。

昨年の今頃は、病院のベットで寝ていました。

なんとか仕事にも復帰できました。

現在は、これまで集めた紙モノコレクションの整理に入っています。

電子書籍での出版が目標です。

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カシオペア歴史研究所

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