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2017年9月21日 (木)

陣場台熱球録 19

大正15年(1926)12月25日大正天皇が崩御された。時代は大正から昭和へと変わる。新しい時代は「H」のユニフォームと共に、福陵野球が全国の檜舞台立つ瞬間でもあった。大正15年(昭和元年)から昭和2年(1927)にかけての冬期練習は講堂で行われた。柔軟体操、基本的な練習から守備のトリックプレイなど、天知氏から指導された総合練習をこなすうちに、選手の間には早くグランドに出て実践的な練習をしたいという気持ちがわいてきた。昭和2年(1927)3月も中旬を過ぎると、選手一同スコップを持ってグランドの土を掘り、それを積もった雪の上に撒き散らした。そのために思ったよりも早く雪が消え、3月22日からグランドに出て練習を開始した。
 7月初旬には、明治大学から永沢次郎選手を迎えてコーチを受けた。善導寺住職の好意により、善導寺に泊まりがけで合宿訓練行うことができた。合宿は大正期の末から必要性が叫ばれていたが、この時に初めて実現したのだった。

 7月28日には第13回東北大会に向けて出発した。東北大会は盛岡中学を舞台に15校が参加して行われた。岩手県で行われた初めての予選であった。

1回戦 不戦勝
2回戦 16-1東北学院
3回戦 6-1岩手師範
準決勝 13-1仙台商業
決勝  1-0盛岡中学

 8月3日の決勝戦では、宿敵の盛岡中学を三度目にして降し栄冠を勝ち取った。決勝戦には、明治大学の井野川捕手がベンチコーチに、対する盛岡中学は早稲田大学の源川投手がベンチコーチとなり、早明戦の地方版という雰囲気であった。

試合は、両チームの投手が素晴らしいピッチングを見せて最小得点で決着する展開となった。盛岡は二回に好機をつかんだが、福岡右翼辻村から二塁手小坂、そして捕手の村田への中継がこれ以上ない好返球となりチャンスをつぶした。九回も先頭打者が右翼前ヒットで出塁したが二塁盗塁に失敗しチャンスを逃す。福中・戸来投手の前に安打5本、三振8個。

 対する福中打線は盛岡中学エース山田投手の前に沈黙した。延長12回までノーヒットに抑え込まれる。十三回一死から、三番打者の佐藤がこの試合唯一の右前安打で出塁。四番・久保田は一塁へのファールフライで二死。五番・戸来はショートゴロで万事窮すと思われたが遊撃手と一塁手のエラーとなり、一塁ランナーの佐藤が生還し1点を挙げた。

 戸来投手は十三回裏の盛岡中学の攻撃を三者凡退に切り抜けた。福中打線は安打1本、三振9個であったが、鉄壁の守備陣と佐藤選手の好走塁で勝利を収めた。決勝戦の経過から見て一安打のみで勝ち得たことは幸運であった。それほど盛岡中学の山田投手は素晴らしい投球であった。宿敵の盛岡中を三度目で降した福中の、汗と血の結晶で勝ち取った「優勝」という栄誉はまさに誇りである。

 優勝旗をかざして終列車で帰校。福岡駅前は熱狂する関係者の姿があった。校長をはじめとする諸先生方、生徒、町の有志など物凄い人波だった。福岡駅頭から堀野まで優勝を歓迎する提灯行列。選手は汚れたユニフォーム姿を誇りに、応援団幹事と共に数台の自動車に分乗して行進。沿道には「祝優勝」の提灯が提げられ、生徒は数百メートルごとに「凱歌」でストームを組んだ。絶大な拍手に送られ、選手は新たに優勝の喜びを噛み締めたのであった。

  8月9日福岡駅頭で甲子園大会へ向けての壮行式が催され、校長を初め多数の関係者、町内の有志、応援団リーダーの指揮による「遠征歌」に見送られて全国大会に向かった。 続 く

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