陣場台熱球録 #25
戦争も終わり野球を禁止する理由もなくなったが、食料不足、衣料不足、精神的不安定の中でスポーツを行う状況ではないはずだった。
しかし、朝日新聞が行った調査で驚くべき結果がでた。
昭和20年の秋に、朝日新聞社は野球ができるかどうかの調査を全国的な規模で行った。
その時の結果は、「もしも昭和21年に大会を開催するならば必ず参加する」という圧倒的な声だった。
福岡中学でもどこからともなく野球が復活した。
グローブやバットがどこからともなく集まってきた。
しかしボールだけはどこにもなかった。
そこに一人の男がボールを持ってやってきた。
宮岡市太郎である。
昭和初期の黄金期に三塁手として活躍した宮岡は、昭和12年から秋田県小坂鉱山野球部に所属し中心選手として活躍していた。
戦況の悪化とともに野球部も自然消滅に近い形であったが、その状況の中で資材部長に許可をもらいボールを10ダースほど持ち帰っていたのである。
福中グランドに野球が復活した。
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