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2018年3月14日 (水)

田中舘秀三博士 2

田中舘博士が三松にアドバイスしたことに、

「あれこれと広く調査して、次第に重点を絞ってゆく方法」と同時に、

「一つのものを一定の視点で永く追う」の重要性がありました。

三松は、「一つのものを一定の視線で永く追う」方法で昭和新山の形成過程を約一年半にわたりスケッチします。

このスケッチを、昭和23年に田中舘博士が三松の業績としてオスロで開かれた万国火山会議で発表し、「ミマツダイヤグラム」名付けられます。

「ミマツダイヤグラム」は世界的に認められる業績となりました。

さて、「昭和新山」という新火山の名称は、もちろん生成過程では無名でした。

活動が終わって多くの学者が調査に訪れ、三松の自宅で酒を飲みながら火山談義にふけるようになります。

誰からともなく、この新しい山に良い名前をつけようということになり、相談しますがなかなか纏まりません。

「三松山」「正夫山」という意見も出たようですが、三松自身が固辞したので見送られます。

最終的に田中舘博士に一任ということになりました。

そこで博士は、津屋東大地震研究所長と相談し「昭和新山」命名したのです。

また、田中舘秀三博士は日本占領下のシンガポールで、英国の科学者たちと協力し後世に残る活躍をしています。

そのことは別の機会に紹介したいと思います。

カシオペア歴史研究所

Kikou222

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