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2018年7月31日 (火)

九戸政実の年齢 

九戸政実の決起は、天正19年(1591)に起きた争乱である。

南部家の第25代晴継が没した後、南部家を誰が相続するかで争い、最後は南部信直が相続した。

それに異を唱えたのが九戸政実であった。

九戸実親(政実の弟)を推していた九戸党が、信直の相続を不服として南部家に対して反旗を翻し、最終的には信直を支援する豊臣政権の軍勢が九戸城を攻略し、降伏した政実以下を斬首して解決したということが通説になっている。

九戸政実が九戸城に籠もって豊臣勢と戦ったのは、間違いない史実だが、そのときの当主が「政実」であったかどうかは、実は確実な証拠がないのである。

亡くなった年齢の辻褄が合わないのある。

「政実の名」は、天文7年(1538)の日付で九戸神社に伝わる建立時の棟札で確認できる。

実は、その札のみなのである。

その札には、「大旦那源政実」と記されている。

「大旦那源政実」とは、源氏の血を引く政実という意味であるが、政実は56才で処刑されたと伝わっている。

そうすると、天文7年(1538)は3才ということになり、果たして「大旦那源政実」と名乗り、神社を建立したとは考えにくい。

棟札の政実は、既に元服していたと考えると辻褄が合いそうな気がする。

政実の実際の年齢が15年ほど遡るとすると、すでに子供が跡を継いでいてもおかしくない年である。

政実の子供が跡を継いだという伝承は残されていない。

津軽家文書』によると、永禄10年(1567)、政実が一戸大和守宗綱を攻めた時、宗綱の二男勝五郎(11歳)が、九戸の二男弾正を射取ったとある。

二男がいたということは長男もいたということである。

天正19年(1591)の時点で、市左衛門という子がいたと伝わり、市左衛門は津軽に逃れ、津軽為信が保護を加え、御馬廻役知行400石を与えらとの伝説もある。

また、『聞老遺事』によると、政実には九戸落城時に3歳ばかりの末子がいて、四戸氏の者が江刺黒石の正法寺に預け、成長ののち江戸に上り3000石をもらい堀野三右衛門と号し、元和年中(1615~24)陸奥国の巡見使として三迫にきて九戸神社に参詣したという。

一子の亀千代は、落ち延びる途中の田子で討ち取られたとも言う。

政実が敗れたのが68才頃とすると、実弟と伝わる実親は政実の子だったとも考えられる。

歴史の想像は楽しい!

https://youtu.be/9zYVNgJviTc


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