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2018年7月21日 (土)

中川五郎治

日本で最初に種痘を施した中川五郎治は、陸奥国川内村(旧盛岡藩、現青森県むつ市川内町)で1768年に生まれ、江戸後期の北方系牛痘種痘法の伝来者として知られている。

小針屋佐助の子で、本名は佐七である。

若い頃から蝦夷地に渡り、松前の商家に奉公する。

後に択捉島の会所番人となったが、1807年(文化4年)、ロシア船の同島襲撃の際に捕らえられ、シベリアへ流された。

その時五郎治は40歳であった。

シベリア抑留生活は5年に及んだ。

何度も逃げ出したり、捕らえられたりを繰り返した。

この頃から松前の商人・中川良左衛門と偽名を使う。

日本に幽閉中のディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン中佐との捕虜交換のために、文化7年(1810年)カムチャツカに漂着した歓喜丸の水夫らとともに、日本へ送還されることとなる。

1812年(文化9年)に松前に送還されるが、五郎治は、日本の役人の指示によりゴローニンは死んだと伝えるが、これを信じなかったロシア側は通りかかった官船・歓世丸を襲い、高田屋嘉兵衛をカムチャツカへ連行した。

またこの際五郎治は日本の役人に『五郎治申上荒増』を提出している。

松前及び江戸で取調べを受けた後、文政元年(1818年)、手代として松前奉行配下となり、その後松前藩に仕える。

シベリア抑留中にロシア語を読めるようになったことから、ロシア語の種痘書を持ち帰り牛痘種痘術を習得した。

1824年(文政7年)、日本で初めて、田中正右偉門の娘イクに天然痘の予防接種を施したと言われる。

種痘は、種苗を得るのが難しく、シーボルトはじめ日本の数々の名医が試みるが失敗に終わっている。

公式には、日本への種痘導入は、1849年(寛永2年)に楢林宗建がオランダ商船の医官モーニックの協力を得て長崎で成功したとされるが、これに先立つこと25年前に、五郎次は、松前で多くの人々に種痘を施していたのである。

その種痘法は函館の医師である高木啓蔵、白鳥雄蔵によって、秋田、京都に紹介され、福井の笠原良策によって実践されたが、医学界では画期的なことであった。

後に、ロシア語の種痘書は馬場佐十郎が翻訳し「遁花秘訣」、さらに、三河の利光仙庵が「露西亜牛痘全書」として刊行している。

彼の入手した種痘書は幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年(1820年)に和訳されている。その後種痘の技術は箱館の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達され、さらに福井では笠原良策によって実践される。

弘化5年(1848年)9月27日、川に足を滑らせ溺死。享年81。

その没後150年に当たり第99回日本医史学会が函館市で開催されるのを機に碑が建立され、その功績を讃えた。

https://youtu.be/vPDuT0lGUao

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