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2018年8月11日 (土)

明治10年の政府転覆計画

明治10年2月に西郷隆盛を中心として起こった反政府運動がいわゆる西南戦争です。

これに呼応して、明治10年5月に青森県三戸郡、岩手県二戸郡、秋田県鹿角郡の旧南部藩士たちも政府転覆計画を起こします。

これは三戸郡田子町の真田太古を首謀者とする怪事件でした。
 
その計画を簡単に説明すると、5月17日に一派は青森分営を襲い兵器や弾薬を奪い、県庁を撃ち公金を奪う。

別の一派は鹿角地方の金山を襲い、七戸、五戸、三戸を扇動して福岡(二戸)を経て浄法寺に入り、 南部領内随一の豪農小田島勘治を説得(脅し)して資金を出させ、鹿角方面の一派と合流し盛岡に入り、 賛同者を募り仙台鎮台を破り、東京に入ろうとするものでした。

この計画は会輔社(二戸市)の社員・岩館迂太郎の密書により岩手県警察の知るところとなり、青森、秋田の三警察共同捜査により、 5月12日に首謀者が逮捕され未然に防がれたのでした。

この事件の檄文を書いたのが小田為綱です。

彼の明治11年日記によると、この事件の背後には西郷一派のはたらきかけがあったと見られます。

小田為綱は盛岡藩校作人館寮長で、同年の真田太古がおこした反政府運動に参加し投獄されています。

出獄後「憲法草稿評林」を書き、明治21年八戸義塾をひらき漢学をおしえたそうです。

明治31年衆議院議員に就任し当選2回でしたが、明治34年4月5日63歳で死去しました。

南部藩佐幕派の首領楢山佐渡の参謀であった那珂通高は、真田事件を事前に知っており,
福岡(二戸市)の会輔社代表小保内定身に明治10年2月1日付けで手紙を送り、反真田運動を奨めます。

この際、小保内定身は表だった動きを見せていませんが、同志とも言うべき岩館迂太郎が県に密書を送り、 会輔社の下斗米与八郎を実情調査のために鹿角方面に差し向けています。

また、西郷決起を聞いた際には「私の体を投げ打つには他人の勧誘は受けない。西郷が皇室に対して不忠の心があれば別だが、ただ政府内の意見が異なった為のものである。」といって、西郷討伐にはやる社員をなだめたと伝えています。

会輔社代表の小保内定身の自宅には、明治9年7月10日に明治天皇や木戸孝允などが立ち寄っている。定身には客観的な情勢が判っていたと思われます。

反真田の手紙を送った江幡五郎は、 吉田松陰の友人です。

江戸滞在時に国許で兄が、藩の内紛で死に追いやられたことを知り、対立していた家老への仇討ちを企画します。

江幡は吉田松陰・宮部鼎蔵のみちのく旅行に同行し、途中で別れて仇討ちをする計画でしたが、結局決行にいたりませんでした。

この頃に偽名として那珂弥八郎を名乗りましたが、これが気に入ったのか後に苗字を那珂に改めて、五郎をもじって梧楼と号したようです。

戊辰戦争では南部藩の責任者されましたが、なぜか重い処罰はされませんでした。

明治維新後は新政府に出仕し、大蔵省ついで文部省に勤め、特に文部省で活躍した。

https://youtu.be/LSWO0WFsWrM

Kikou24



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