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2018年8月18日 (土)

遣日使は遣唐使より多かった #2

日本には隋や唐からも、インド、ベトナム、新羅、渤海などからも遣日使が押し寄せて来ていました。

あの有名な小野妹子が日本に帰国する際には、32隻もの大船団がついてきたそうです。

9~19世紀の日本では、遣唐使などよりも遣日使のほうが多かったのです。

なぜこのことを教えないのでしょう。

「飛鳥時代から平安時代にかけ遣隋使、遣唐使の派遣目的は隋や唐から先進文化を取り入れるためである。」

日本の教科書は、基本的にこのように記述しています。

しかし、歴史学者と言われる人々は、遣唐使の何倍もの遣日使が来ている事実を見逃しています。(故意に見逃した?)

特に、最初の遣隋使を派遣するに当たり、聖徳太子が小野妹子に持たせた国書のあの有名な文言は象徴的です。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつ)が無きや」を見れば、当時の力関係は台頭だったのです。

太子の書を不快に思った煬帝は、この遣隋使への返礼として大使裴世高を小野妹子に同行させ、隋の冊封体制に組み入れようと試みたのですが失敗に終わります。

小野妹子は、隋の皇帝の返書を求められた際には「無くしました」と聖徳太子に応えています。

素晴らしい外交術です。

これ以降、日本は常にチャイナとは対等な関係です。

忘れてはならないことですが日本と唐は対等でしたが、百済は兄弟国であり、新羅に対しては宗主国でした。

高句麗はチャイナの地方政権のようなものです。

朝鮮は、チャイナを宗主国として仰ぎ、自らは日本の兄と称して格付けに躍起ですが、歴史的証拠も無くて、滑稽というしかありませんね。

ちなみに、日本からあちらに行った人たちは、帰れなくなった人を除いて、みんなこちらに帰ってきたそうです。

現在でも、チャイナから多くの人が日本にやって来て住むのに、その反対は?


https://youtu.be/hC7KxTch63Y

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