漆蝋の歴史 その1
岩手県北部は国産漆の産地として知られている。現在でも国産漆の大半を産出する地域である。
漆の産出が多いということは、当然ながら漆の木が多いということでもある。
明治以降は、越前地方からから出稼ぎに来た漆掻き職人が「殺し掻き」という新しい技法をもたらした。
それ以前は「養生掻き」という掻き方をしており、漆液は数年に一度の割りで少しずつ採取する方法が主流であった。
それは漆の実をたくさん採るためで、漆蝋の原料確保のためであった。
江戸期には、今の岩手県から青森県東部にかけては盛岡藩の領地であった。
その家老日誌である『雑書』(盛岡市中央公民館刊行中)によると、藩には複数の「漆掻奉行」が置かれ、秋になると担当地域内から漆液と漆の実を集めたことが記されている。
正保二(1645)年に盛岡藩が秋田藩との境にある沢内通の番所へ出した命令である「沢内通御留物之事」では、「蝋漆あぶら/箔椀・同木地」などを他藩へ勝手に持ち出すことを禁じ、違反者を捕まえたなら褒美を出すとしている。
同じような命令は、それ以後も各地の番所にも出さ、「蝋」が除外されることはなかった。
正保三(1646)年には「一戸蝋懸藤兵衛」という記録が残っている。
蝋燭を作ることを蝋懸(掛)というので、一七世紀半ばには一戸でこれを職業としていた人物がいたことがわかる。
盛岡藩の「御領分物産取調書」によれば、福岡通について「蝋 惣村より出/漆 惣村より出/蝋燭 福岡町一戸町」とあって、蝋と漆は二戸地方全域で、蝋燭は福岡町と一戸町で生産されていたことが記録に残っている。
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