ネギ味噌味
この頃は煎餅を購入します。
お気に入りはネギ味噌味。
病みつきになりそうです。
カロリー的には1枚が限界なんでしょうが、3枚食べてしましました。
夕飯を控えなくてはいけません。
煎餅のカロリーは、意外に高いんですよね。
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浄法寺町は岩手県北部で、町には八葉山天台寺という中尊寺より開基が少し古い寺がある。この町は昔から漆の原液の集産地として有名であり、私が初めて浄法寺に行ったのは昭和40年頃は漆の掻き子が12名ほどいた。
浄法寺の箔椀は南部藩の注文によって作られていたため、古文書が残っている。それによると「箔椀や木地を横流しした者を掴まえれば褒美として具持ちを渡す」という内容で、「正保2年6月20日(南部文書)」とあるが、かなり厳しく取り締まっていたことがわかる。
南部箔椀は、秀衡椀の影響を受けているが、秀衡椀とははっきり違った特色を持っている。
形は秀衡椀が縁が内にかかえ気味で高台が曲線状で黄漆をあるのに対し、浄法寺椀は縁は内にかかえず、高台も直線状で外に開いていて秀衡椀との違いがはっきり解り、紋様は秀衡と較べるとかなり様式化されている。雲型の縁も単調になり、したの方まで下がり、その方形の切箔を四枚菱形に置き、その間に太めな箔を一枚置いている。また、雲形の中に紅柄漆で細い線を網代状に描いている。花などの紋様は秀衡は十数種類あるが何故か浄法寺箔椀は枝菊ががほとんどで、菊の花が二三輪に蕾と葉がかなり達者な筆致で描かれている。その菊紋は黄漆・黄粉蒔絵、また箔絵の場合は引っ掻きか、描き割りで花弁を描いている。また、高台に鋸状の切箔を置いたものもあり、秀衡より過食が多く手が込んでいる。この箔椀は四重、それに吸物、壺、平椀を加えた五つ椀もある。この椀は秀衡同様、身分のある旧家に伝わっている。
宮城県金成の有壁本陣に秀衡椀とともに伝わる南部箔椀は、殿様などの接待用使っていたということである
浄法寺にはこのような上手の椀のほかに、一般庶民用の雑椀や酒上などがあり、北海道にも大部出したという。雑椀は内外黒で胴に赤漆で草花や鶴、鹿などが少ない筆数で巧みに描かれたものや黒や紅柄の無地がある。また六寸ほどの木皿には銀杏、橘、 茫、瓢箪、桃などの絵柄が余程描いたらしい。絵も益子の山水土瓶のようにぎりぎりに単純化されたもので、どれひとつとっても見事な紋様である。浄法寺やその近辺の野良に出る時、やきものより軽いので木皿を無造作に背負籠に入れて持っていって、煮物やご飯を食べるのに使ったいたという。
浄法寺町の旧家に箔椀で五ヶ一組で五器、違った形の五ヶ一組を持ち伝えている家があって見せていただいたが、よく見ると上物であって特に気張って作った様子がない。この辺が浄法寺椀の良いところではないだろうか。
株式会社里文出版
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アイワのラジカセ。
地元の誘致企業だったのでアイワ製持ってました。
でも、もったいなくて、このカタログのように海には持っていけませんでしたよ。
30年前は普通にあったんですが、急激に廃れた電化製品ですね。
でも、当時のミュージックテープは、当時の機械で聴きたいです。
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浄法寺という地名から、浄法寺という寺院の存在を調べています。
かつては那須郡に浄法寺という寺院があったようです。
http://www.wikiwand.com/ja/%E9%82%A3%E9%A0%88%E9%83%A1
那須郡の郡寺は那須官衙遺跡の北方、那須郡那珂川町浄法寺下坪に位置する浄法寺廃寺であると考えられている。
この遺跡は7世紀中葉ごろに創建された寺院の跡で、那須官衙遺跡と同じく箒川右岸の台地上に位置する。
50年先のことは、夢に見るだけより他はあるまい。心理学者の話では、どんなありえないような無理な夢でも、実際感じたことをあれこれかき混ぜて、感じを起こすのだそうだ。そういう夢のような古い迷信を理学者達がうち破ってから、人間の知識が、からりと開け、ありきたりの知識を乗り越え、飛び越え、ロガリズミック(大変な勢い)の調子で進み出した。
1873年マックスウェルの大論文で「電気の波が光の速さで空中を伝わるはずだ」と聞かされたとき、人々は夢かとばかり驚いた。がしばらくして、ヘルツの実験でそれが鮮やかに証明されると、さっそくマルコニーがそれを応用して、無線電信を作り出した。その波の長さは数キロメートルであった。
ところが、その反対に光の波よりずっと短いエクス線がこれに続いて発見されて、それが不透明なものを通して見られるので、生きた人間の体でも機械に使ってある材料の中でも、そこにある病や傷をあらためるのに役立ち、大層重宝がられている。これらはすべて前世紀(19世紀)の末ごろの出来事であった。
今世紀になって一層応用が進み、無線電話、ラジオ放送、テレビジョン、それの天然色(カラー化)、また、大戦争のおかげでレーダーが出来、これで遠くの天気もようも見られ、大いに天気予報に役立つ。なお数百キロメートルの高さにある電離層FEDの上がり下がりのはか、そこのイオンの数までが観測されるようになった。
これらはすべて地球の表面から上のことだが、すぐ足下の地面の内部は、これに比べて情けないほどわかりかねている。ただ、地磁気、地電流、地震の伝わり方、それの起こる場所などは、時の統計などによっていくらかの様子をうかがうにすぎない。何とかしてエクス線で体の中を見るように、しかるべく電波のあんばいを刷るわけにはいくまいか。
幸い、それが出来たらば、地震を起こす断層ができかけているいがみ、ひがみや、火山の爆発前の溶岩の動きなども見えて、予報の助けにもなり、またその応用は、金銀銅鉄のありかを捜すに役立とう。また、欲を言えば、地球の心(しん)が固形体か流動体かなどの問題もわかってこよう。
こんなことの研究には、大仕掛けの設備や機械なども入り用かもしれないが、また、ヘルツやレントゲンが使ったような簡単な手細工の道具でできるかもしれない。さらにまた、マックスウェルのような頭の働きだけで出来るかもしれない。また、50年先といっても、10年か20年でできるか、数百年の後だかもわからない。
『NEW AKINA エトランゼ』(ニュー・アキナエトランゼ)は、日本の歌手中森明菜の4枚目のスタジオ・アルバム。このアルバムは1983年8月10日にワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)よりリリースされた。
実家の倉庫に数回聴いた状態で30年以上眠っていました。掘り起こして聴いたら、まさしく昭和の音です。良いですね。
できれば当時の器機で再生すると最高です。
レコード長屋、浄法寺の中心部で再開します。
2年後の予定?
https://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet
昭和2年の夏の甲子園大会に出場した福岡中学は、敬遠満塁策を成功させ観客を驚かせた。
昭和2年夏の東北大会を制したのは、岩手の北僻にある福岡中学。 全校生徒200人の小さな中学校。
しかし、ベスト8に進出して球聖と言われた飛田穂州を驚かせました。
この大会で優勝した高松商業に延長11回で0-1で惜敗。
圧巻だったのは、高松商業9回裏の攻撃。
1死二塁で福岡バッテリーの選択は敬遠満塁策。 二人を歩かせ1死萬塁。
次打者の2球目を外角高めに外し、三塁走者の水原茂を挟殺。
続く者を三振に打ち取りピンチを凌いだのであった。
試合には敗れたが、飛田穂州は最大限の賛辞を送り健闘を称えた。
この活躍が認められて、昭和3年の春に選抜された。
予算不足で選抜を辞退したが、後世に伝えたい快挙であった。
http://www.airinjuku.com/index.html
栃木県那珂川町の浄法寺舘を調べています。
興味深いサイトを見つけました。
来年のアユの季節に行ってみたいです。
http://yogokun.my.coocan.jp/totigi/ogawamati.htm
浄法寺館は、那珂川に面した河岸段丘上にあった。北には那珂川、南側にはなめり川が流れ、天然の水堀を成している。
地元の片から伺った話によると、城の辺りは「御城(みじょう)といい、またすぐ近くには「中城」という屋号のお宅がある。浄法寺氏の館で、大関氏に臣従し、婿に入ったことがあったそうだ。城の遺構などは特に残っていない。」ということであった。「御城」「中城」といった関連地名の存在からすると、それなりの規模を有した城館であったものであろうが、城址内部は宅地化が進んでいて、旧状はさっぱり分からなくなってしまっている。
城址には箒川に注ぐなめり川が蛇行しながら流れており、箒川と、このなめり川の織りなす断崖とを天然の要害とした城館であったものと思われる。
「遺構はない」というお話であるが、付近には下の写真のような土塁がけっこう長く延びていた。ただし、堀は見られなかった。
浄法寺館は浄法寺氏の居館であった。浄法寺氏については詳しいことは分からないが、おそらく那須一族であり、現地での伝承の通りに、後には大関氏に仕えたという。
中学生の頃、少し年上のお姉さんバンドとして好きだったガールズ。
アメリカの女性ロックバンド「ランナウエイズ」のコピーバンドと言われた。
たしかに「チェリーボンブ」を日本語でカバーした。
中で、リードギターを担当した奥野敦子は後にジューシーフルーツに参加。
イリアという愛称の方が知られている。
ヴォーカルのリタ(野元貴子)はピンナップスに参加。
彼女らも還暦越えですね。
浄法寺氏の家臣勝又氏に関する記述を下記のサイトで見つけました。
http://asayake.chicappa.jp/inblog/?eid=1724
勝又ー南部藩ー浄法寺
浄法寺一族とその領地
浄法寺氏
浄法寺氏は浄法寺城を居城に安比川流域を支配したという。
『東奥軍記』の中に鹿角郡浄法寺と書かれており、鹿角まで勢力を延ばしたということから「鹿角の大将」とも呼ばれた。
浄法寺城は八幡館、大館、西館(仮称)、新城館、北館(仮称)の五つの郭から成る。
一族と家臣
浄法寺氏の一族には松岡氏から出た浄法寺氏、松岡氏から分かれた大森氏、浄法寺氏から分かれた太田氏、
駒ヶ嶺氏、中川原氏、五日市氏、杉沢氏、田山氏、吉田氏、西舘氏、寺田氏がいる。
家臣
安ヶ平氏、田中館氏、斉藤氏、大清水氏、勝又氏、漆沢氏、下藤氏等がいる。
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城館と分流
地名と城館名 一族の分流 家紋(併用家紋含む)
松岡|松岡館 畠山族 五三桐 二引龍 三亀甲、橘
大森|大森館 松岡分族 五七桐
太田|太田館 浄法寺分族 五三桐 五七桐
駒ヶ嶺(駒嶺)|駒ヶ嶺館 浄法寺分族 五三桐 五七桐、三亀甲、丸内桐、三柏、三巴
五日市|五日市館 松岡分族 五三桐、三巴
吉田|吉田館 大田分族、駒ヶ嶺分族 五三桐、五七桐
田山|田山館 浄法寺分族 不明
杉沢|杉沢館 浄法寺氏族 五七桐
西舘?|西舘 浄法寺分族 五七桐
?|中川原館? 浄法寺氏族 五七桐 万字 丸菊
旧西根町寺田?|寺田館? 浄法寺分族 不明
家臣の城館と本姓
地名と城館名 苗字と本姓 家紋(併用家紋含む)
田中舘?|田中舘? 田中館|小笠原氏族、三浦氏族 (小笠原)丸内三階菱、(三浦)丸内松皮菱、丸内三引
安比平?|安ヶ平館 安ヶ平|不明(源氏か) 丸内蔦、花菱、五三桐
川又|川又舘 勝又(勝馬田)|桓武平氏庶流(良文流) 蔦 三柏
漆沢|漆沢館 漆沢|不明 不明
大清水館|大清水館 大清水|不明 不明
下藤|下藤館 下藤|不明 不明
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概要
浄法寺氏は南部氏の重臣で、岩手県二戸郡浄法寺を本拠地とする。
鎌倉武士畠山重忠の三男、 畠山重慶の遺児重基を祖とする豪族である。
一部の流れは佐々木氏と同じく二戸氏を名乗る、勢力は三戸、八戸、九戸氏に次ぐ勢力を誇った。
浄法寺城跡について知りたい方は岩手考古学会のサイトへどうぞ。
第22回岩手考古学会 研究大会発表資料の項目にあります。
「畠山重忠の三男、重慶は出家して大夫房阿闍梨重慶と称し、のち奥州に来て二戸郡浄法寺に住んだ。
しかし、父と二人の兄を殺害された悔しさが忘れられず、その恨みを晴らすために兵を起こした。
これを知った鎌倉は長宗宗政に重慶追討を命じた。重慶は長沼によって無念の死を遂げた。
このとき重慶の子供は幼かったので、村のどこかに隠れて助かった、これが浄法寺重基である。
重基は村人を従えて一家を成し、応永(1394-1427)のころ三戸南部氏十三世、守行に従って功績をあげた」
「奥南落穂集」より
浄法寺という名の由来
畠山庄司重忠の後裔也 右大将頼朝公伊達次郎泰衡御退治以後 重忠の弟重宗に二戸郡を賜
(此時畠山重忠の郎等本多次郎近常か二男供して下向故に浄法寺の内本田と伝村有)
浄法寺と唱ふることは 重忠の末子鎌倉浄法寺と云寺に出家して有けるか 重宗の嫡子死去して
嗣子なし 故環俗下向して家を継 仍て家名を浄法寺と号 (元松岡氏と称す) 子孫永く浄法寺に
居住し浄法寺修理代慶長年中岩崎合戦有 此時修理利直公の命に背き (或は岩崎城代被仰付
といへ共修理命に従はすとも云) 浄法寺五千石召放され 重宗より数代二戸郡を領する嫡家此時
断絶す
『南旧秘事記』より
(鎌倉の浄法寺については、江戸時代の編纂物「南方紀伝」に1430年(永享二年)の正月に炎上したと書かれている。
現存していなく、鎌倉のどこにあったかもわからない。また開基も不明である。
以上の内容です。
平成15年の野球部は、前年秋の新人戦地区予選一回戦でコールド負けしたチームとは思えない活躍を見せる。
春季は地区代表決定戦で16-6と軽米高校を破って県大会出場を果たした。県大会一回戦では3-8釜石南と成績は振るわなかった。
しかし、春から夏にかけて投手・守備陣が安定し、打撃も好打者五日市陽介を中心にチャンスをものにするねばり強いチームに仕上がった。
一回戦5-3宮古工業、二回戦13-3宮古水産、三回戦6-5一関学院を撃破した。一関学院は前年夏のエースが残り、この大会でも優勝候補であった。序盤から試合を優位に進め、一時は逆転を許したが、不動の四番五日市の同点本塁打などが飛び出し会心の勝利を収めた。
続く準々決勝の金ヶ崎高校戦は押されながらも2-1と逃げ切り、準決勝の花巻東戦では遠投戦で3-2と接戦をものにした。昭和60年以来の決勝進出である。接戦を勝ち上がってきた勢いをそのままに戦いたかったが、雨天のために試合は一日順延となった。
決勝戦も稀に見る接戦となった。福岡投手陣が踏ん張り、特に7回の無死満塁を無得点に切り抜けたあたりでは、流れは完全に福岡にあるかに思われた。
しかし、実力に勝る盛岡大学付属は8回に1点を挙げこれが決勝点となった。福岡も最終回に、気力十分の五日市のバットに期待が持たれたが、敬遠気味に歩かされ次打者が打ち取られて万事休した。
敗れたとはいえ、この年の野球部の活躍は見事であった。私立四強の一角を崩し、1点差の接戦をものにして勝ち上がる姿は高校野球の醍醐味である。雨天での順延がなければ・・・。
本日は朝から五戸の菊駒呑みながら、ホームページ再構築しています。
ブログやSNSは、速攻で公開できますが。やはり体系的に長く何かを訴えるにはホームページです。
作り方を思い出しながらやってます。
器は矢羽根の蕎麦猪口で、江戸から明治にかけての物です。
肴は魚肉ソーセージ。
残りの人生で何かを残したいです。
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浄法寺氏を考えるうえで参考になるサイトです。
群馬県藤岡市も浄法寺氏を考えるうえで重要な場所です。
山崎一氏は浄法寺城については、山城としての三ツ山城、金鑚御嶽城を防御ラインとした地域城という見解を示しています。これによりますと古くは浄法寺氏(浄法寺左近大夫)、後に平沢氏(長井氏)、西上州地域に武田氏の支配が及んでいたころには信濃佐久を本願地とする依田氏がその支配に関わったと推定されるのが通説のようです。(「日本城郭体系 4」より)
しかし、浄法寺氏の事跡については南北朝期に高山・小林一族ととも足利方に加わったとされているほか、のちに戦国期の「安保文書」に断片的に登場しているもののかなり不明な部分が多いものと思われます。また武田氏・後北条氏勢力の間隙を縫うようにして登場し神流川右岸一帯を中心としてその支配下に収めていた平沢氏についても、何通かの所領安堵状が残されているほかは、長井斉藤氏の系譜であることを示す系図が存在するというものの他にその出自を示す明確な史料は見当たらないとされています。
さらに、依田氏(はじめ芦田氏、のちに松平姓を賜る)についても関ヶ原の合戦以前に早々と歴史の表舞台から姿を消し去っていることもあり、芦田川屋敷の伝承と関東入府にあたり徳川家より藤岡城主として3万石を拝領したという以外にはこの地域との関わりを如実に示す史料が十分に残されているとは言えないものと考えられます。
浄法寺氏に関しての興味深いサイトです。
体系的にまとめると面白そうです。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/johouji1.htm
高山党の系図は、ほかにもあり、例えば、①紀州南葵文庫旧蔵の『八平氏並諸家系図』(大阪府立図書館蔵)には、高山三郎重遠の子として、平井三郎重直、杣米四郎有直、白土三郎重高、高山八郎重光をあげ、杣米四郎有直の子に中村次郎重景、小林次郎重清、泉十郎重家をあげ、高山八郎重光の子に平井次郎重親、白土五郎重胤をあげる。
また、京の公家の家臣になった高山一族(重遠の子、太郎重郷の流れ)、摂津の高山右近(名は重友、長房、友祥という)につながる系統(重遠の子、七郎重高の流れ)もあり、その系図②③(ともに『百家系図』所収)も伝わるが、上記系図とは苗字・実名が多少とも異なるので、この辺は明確に判別はし難い面がある。
いずれにせよ、『東鑑』には頼朝の時代の文治・建久の武家として、小林次郎重弘、小林三郎が見え、奥州征伐に従った高山三郎重親など高山・小林一族も見えるから、この一族がそうした縁で陸奥に所領をもったことは十分考えられる。
このような事情で、陸奥の浄法寺氏が発生したとみるほうが、滅ぼされた重忠親子の後裔説よりも説得性が強い。
重忠後裔説は浄法寺氏の祖に重保という重忠の子と同名の者がいたことで生じたものか。ただ、浄法寺氏の名は上記①~③の系図には見えない事情もあるが、那智大社蔵の「小林系図」は室町前期のものとみられ、内容的に信頼してよさそうである。
小林一族の多くは緑野郡にそのまま居住して、近隣の多胡郡に居た新田一族の山名氏の重臣になり、『太平記』には巻36に「山名が執事小林民部丞重長」が二千余騎を率いたことも見える。高山一族でも、同書巻14に新田十六騎の一人として高山遠江守が見えるが、高山七郎重高の六世孫として系図に見える遠江守重鳥がそれにあたる。
『太平記』巻第31には、正平7年・観応3年(1352)閏二月に「新田義兵を起す事」条の記事があり、新田義貞の次男義興・三男義宗らが武蔵・上野などで義兵を起さんと企てたとき、足利将軍方に加わった武家のなかに「浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助」が見える。白塩は緑野郡白塩邑より起る氏(『姓氏家系大辞典』)とのことで、これらは皆、緑野郡の武家で同族と分かる。高山党関係の系図には、白塩氏は見えないが白土氏はあり、両者は同一かとも思われる。これが、浄法寺氏の記事では史料初見ともいうべきものである。
なお、河越氏に関して、那智大社蔵の「小林系図」には、高山三郎重遠の兄に次郎大夫重高をおき、その子の位置に河越太郎重頼をおく(ただし、系線なし)という記事もあるから、重頼を重高(重隆)の実子と考えることの裏付けとなろう。
http://www.airinjuku.com/joboji/joboji-top.html
八戸には江戸末期の大名婚礼に関わる漆器が残されています。
産地がどこか興味のあるところです。
http://www6.pref.aomori.lg.jp/p-view/information/konnatoko/enkaku/kinsei/post-114.html
八戸藩8代藩主・南部信真は十一男九女に恵まれたが、男児の多くが早世した。急ぎ養子縁組の必要に迫られた八戸藩は、1838年(天保9年)4月、鹿児島藩の島津篤之丞を、娘鶴姫のむこに迎えることとしました。これが最後の9代藩主となる南部信順です。
八戸南部家と島津家が結びついたきっかけについては諸説あり、たとえば八戸藩の江戸藩邸には、さまざまな相撲見物が訪れており、実際に1826年(文政9年)に八戸藩上屋敷に島津斉彬などが與招かれていることから、そうした交友の延長線上に縁ができたことを重視する向きもあれば、それ以前から両家は姻族となっており、その関係から縁組が実現したとの指摘もある。
信順の婚約者鶴姫は1838年(天保9年)の婚約当時、わずか2歳だったので、正式な結婚は1850年(嘉永3年)6月となりました。信順が持参したとされる婚礼調度品「菊牡丹唐草轡十字紋蒔絵漆器」13点には島津家の家紋「轡十文字」があしらわれ、鶴姫の婚礼調度品「唐草南部鶴紋蒔絵漆器」12点とともに八戸市博物館に所蔵・展示されています。
工芸品関係で知り合った方から、滋賀県の不老泉を紹介されました。
琵琶湖のほとりの美味い酒のようです。
轆轤文化の調査で行って見たい地域です。
それまでに、知識を身につけたいと思います。
以下紹介文です。
上原酒造はびわ湖の西岸、新旭町にあります。年間生産高が500石ほどの小さな酒蔵ですが、酒に対するこだわりは全国の酒蔵の中でもとび抜けています。
こだわりの大黒柱は山廃仕込みです。上原酒造の山廃仕込みは酵母添加をしません。 他の蔵で当然のこととして行われていいる、人工的に培養された酵母を添加するという手法を一切使わず、蔵付酵母(天然酵母)が自然に酒母に入り育つのを、ゆっくり待ちます。
酒造りをご存知の方にこの話をすると「えっ!?」と驚かれるのですが、本当なのです。 今どき、こんな手間のかかることをしている蔵があるのですね。
https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005
https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005
浄法寺氏について興味深いサイトを見つけました。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/johouji1.htm
室町~戦国期の陸奥の大族浄法寺氏は、二戸郡浄法寺郷に居り岩手県北部の安比川流域(現二戸市浄法寺町一帯)を押さえ、一族に松岡、田山、寺田などの諸氏を出したが、その出自については、畠山次郎重忠の後裔と伝える(『奥南旧指録』)。
この解釈として、重忠の末子、大夫阿闍梨重慶の遺児(太郎重基?)が陸奥国二戸郡に逃れて在地の土豪となり、室町時代前期の応永中に、南部守行に属したとされる。しかし、阿闍梨重慶の遺児説には大きな疑問があり、むしろ重忠弟の六郎重宗の後裔かと疑う説(『郷村記』)もあるなど、これまで諸伝が見える。
そこで、資料に基づいて考え直してみると、苗字の地たる浄法寺が上野国緑野郡にもあること(藤岡市浄法寺。旧緑野郡鬼石町)に留意される。
それが、緑野郡高山御厨(藤岡市南部の鮎川一帯)に起った秩父同族の高山党の勢力圏にあって、高山(藤岡市高山)と山地を挟んで南隣に位置し、神流川の中流西岸にある平地である。
畠山重忠の大叔父で高山党の祖となる高山三郎重遠は、秩父権守重綱の子、太郎大夫重広(重忠の祖父)の弟であり、その子・栗須四郎有重は栗須(藤岡市の上・中・下の栗須一帯。高山から東北方)に住み、その子には小林次郎重兼、小林三郎重清の兄弟がいた。
兄弟は、栗須から南方近隣の神流川下流部北岸にある同郡小林郷(藤岡市小林)へ移って小林を号し、重清の子の三郎二郎重保が神流川を遡って西南方に進んで浄法寺に住み、浄法寺氏の祖となった。
こうした動きは、和歌山県那智勝浦町の那智大社の文書(『熊野那智大社文書』)にある「小林系図」から分かることである。
この系図は、『新編埼玉県史』別編4(年表・系図)にも所収となっており、それに拠ると、重保の子の「重行(弥二郎、法名行蓮)-重員(弥三郎、法名行心)-重直(小二郎、法名行妙)-景重(弥二郎)-季重(弥三郎)」と嫡系が続いており、これが実系であるとすると、景重が建武頃、その子の季重が応永頃に活動したことになり、奥州浄法寺へ移り住んだのはこの親子か近親一族であって、その末裔が陸奥の浄法寺氏だろうとみられる。
金田一温泉駅前にある藤萬菓子店。
「のへりん」という不思議な名前のお菓子があります。
由来は「にのへのりんご」からのようです。
りんごの形で可愛らしいですよね。
米粉の皮で包まれているのはりんご餡で、食べてみると、和菓子のような洋菓子のような不思議な食感。
甘酸っぱいりんご餡が美味しいんですよ。
金田一温泉をよろしく!
https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005
心惹かれるコーフーミルをヤフオクで発見。
何でも集めたい病が出そうです。
手挽きのミルで、美味い珈琲を淹れるのは難しいです。
40年前には、隣町に名人がいたんですが、既に亡くなっているようです。
コンビニの珈琲は確実に美味くなっていますが、やはり喫茶店文化は懐かしいです。
https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005
浄法寺漆器に重大な位置を占めると思われる天台寺。
その入り口とも言うべきなのが桂清水。
昭和40年代の荒れ放題だった姿を知っています。
その時から見れば、一見すると復興しているように見えます。
しかし、信仰まで復活したかどうかは疑問です。
宿坊が復活すれば面白いですね。
https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005
たぶん中学生の頃の話。
当時の日本ではほとんど前例が無かった女の子だけのロック・バンドに「ガールズ」がある。
たぶん下着姿で歌う米国のガールズ・バンド「ランナウェイズ」がお手本である。
このメンバーで最も有名なのがイリア。
後にジューシイフルーツで活躍。
そんで探しているのが、ガールズのボーカルのリタが解散後に参加したピンナップスのレコード。
やっと見つけました。
うれしいです。
中学生の頃、ラジオからよく流れていたのがデビー・ブーンでした。
記憶に間違いがなければ全米ナンバーワンヒットを記憶したはずです。
当時は購入できなかったのですが、社会人になってから中古レコードを購入。
そのレコードを引っ張り出して久しぶりに聴きました。
当時の情景が浮かんできます。
体調が良ければ、当時の仲間と飲みたいですね。
https://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet
倉庫から出てきました。
10年以上保管されていました。
一つあると何かと便利です。
色も落ちついた朱色。
是非お使いください。
httphttps://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/l490061456s://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/l490061456
就職して初めて買ったレコードです。
昭和56年7月です。
何度も繰り返して聞いたものです。
いま聴いても新鮮です。
現在も活動しているようですね。
ライブで聴きたいです。
https://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet
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中古価格 |
なぜか久慈高校長内校の50周年記念誌があります。
平成11年発行の記念誌です。
地域の歴史資料にいかがでしょうか。
必要な方にお譲りします。
気軽にお問い合わせください。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/325638790
俳人として知られる小林一茶の故郷は、信濃国水内郡柏原村で、黒姫山の麓の雪深い里である。
この地域は、良質のソバが生産されることでも有名で、十五才で江戸の奉公に出るまでの一茶は、秋にはあたり一面に咲く白いソバ畑を見て育ったと思われる。
50歳を過ぎてから故郷に戻り、1829年に65歳の生涯を終えている。
蕎麦を詠んだ句も残されている。
○「そば所と人はいふ也赤蜻蛉」
文化4年(1807)の句である。
蕎麦の花が咲きだすと実に多くの虫たちが飛来する。白い花々にはどの昆虫も似合っているが、なかでも白い花の高見に留まり、ときに低空に飛ぶ赤とんぼとの風景は格別である。
https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005
古椀コレクションの中で、生産地が解らなかった椀。
ヤフオクに出ていました。
会津ものということが判明です。
たしかにしっかりした作りで、長く使えそうです。
今夜は、このお椀で豚汁いただく予定です。
熱い汁物は、漆器が良いですね。
https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005
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