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2018年12月15日 (土)

高山党

浄法寺氏に関しての興味深いサイトです。
体系的にまとめると面白そうです。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/johouji1.htm


高山党の系図は、ほかにもあり、例えば、①紀州南葵文庫旧蔵の『八平氏並諸家系図』(大阪府立図書館蔵)には、高山三郎重遠の子として、平井三郎重直、杣米四郎有直、白土三郎重高、高山八郎重光をあげ、杣米四郎有直の子に中村次郎重景、小林次郎重清、泉十郎重家をあげ、高山八郎重光の子に平井次郎重親、白土五郎重胤をあげる。

また、京の公家の家臣になった高山一族(重遠の子、太郎重郷の流れ)、摂津の高山右近(名は重友、長房、友祥という)につながる系統(重遠の子、七郎重高の流れ)もあり、その系図②③(ともに『百家系図』所収)も伝わるが、上記系図とは苗字・実名が多少とも異なるので、この辺は明確に判別はし難い面がある。

いずれにせよ、『東鑑』には頼朝の時代の文治・建久の武家として、小林次郎重弘、小林三郎が見え、奥州征伐に従った高山三郎重親など高山・小林一族も見えるから、この一族がそうした縁で陸奥に所領をもったことは十分考えられる。

このような事情で、陸奥の浄法寺氏が発生したとみるほうが、滅ぼされた重忠親子の後裔説よりも説得性が強い。

重忠後裔説は浄法寺氏の祖に重保という重忠の子と同名の者がいたことで生じたものか。ただ、浄法寺氏の名は上記①~③の系図には見えない事情もあるが、那智大社蔵の「小林系図」は室町前期のものとみられ、内容的に信頼してよさそうである。

小林一族の多くは緑野郡にそのまま居住して、近隣の多胡郡に居た新田一族の山名氏の重臣になり、『太平記』には巻36に「山名が執事小林民部丞重長」が二千余騎を率いたことも見える。高山一族でも、同書巻14に新田十六騎の一人として高山遠江守が見えるが、高山七郎重高の六世孫として系図に見える遠江守重鳥がそれにあたる。

『太平記』巻第31には、正平7年・観応3年(1352)閏二月に「新田義兵を起す事」条の記事があり、新田義貞の次男義興・三男義宗らが武蔵・上野などで義兵を起さんと企てたとき、足利将軍方に加わった武家のなかに「浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助」が見える。白塩は緑野郡白塩邑より起る氏(『姓氏家系大辞典』)とのことで、これらは皆、緑野郡の武家で同族と分かる。高山党関係の系図には、白塩氏は見えないが白土氏はあり、両者は同一かとも思われる。これが、浄法寺氏の記事では史料初見ともいうべきものである。
 
なお、河越氏に関して、那智大社蔵の「小林系図」には、高山三郎重遠の兄に次郎大夫重高をおき、その子の位置に河越太郎重頼をおく(ただし、系線なし)という記事もあるから、重頼を重高(重隆)の実子と考えることの裏付けとなろう。

http://www.airinjuku.com/joboji/joboji-top.html
 
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