江戸期の盛岡藩内
江戸期の盛岡藩内では漆蝋が生産され、藩にとっても貴重な産物の一つであったことは資料から明らかである。しかし、集めた漆の実をどこで、どのように絞って蝋を作り、これを原料にして何を、どれくらい作ったのかなどはまだ解明されていないことも多い。
盛岡藩の資料には、盛岡城下に住んでいた藩お抱え蝋燭師の名前も記録に残っている。おそらく漆蝋を原料に蝋燭が作られ、城内や武家屋敷での照明として用いられたと思われる。
このほかに、祭礼や祈願などの際に、藩内の主な社寺への奉納物としても蝋燭は珍重されていたとおもわれる。
明治10(1877)年に来日し、大森貝塚の発見者としても有名なアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、日本滞在中に各地を旅行しその記録を『日本その日その日』(平凡社、東洋文庫)として残した。彼は明治11(1878)年8月20日頃に現在の二戸市福岡を通過するが、そのときの印象を次のように書きしるしている。
一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人々は、ヌルデの一種の種子から取得する、植物蝋をつくりつつあった。この蝋で日本人は蝋燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。
ここ北日本でも同国の他の地方と同じように、この蝋をつくる。先ず種子を集め、反槌で粉末にし、それを竈に入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔を入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蝋をしぼり出す。すると蝋は穴の下の桶に流れこむ。
岩手県北地方での、本格的な漆蝋生産は大正末期までだったらしい。水力発電所ができて新しい照明の時代になったこと、西洋ローソクの普及が衰退の理由である。江戸期の浄法寺では、この和蝋燭の炎で漆器に文様を付ける技法があった。この技法は、西洋蝋燭だと上手くいかないらしい。
蛇足ではあるが、エドワード・S・モースが日本滞在中に住んでいた家の数件隣に、若き日の田中舘愛橘が住んでいた。もしかしたら、エドワード・S・モースの東北旅行も、愛橘博士の影響があったのかもしれない。
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