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2019年3月14日 (木)

九戸の決起

九戸政実の決起は、天正19年(1591)に起きた争乱です。南部家の第25代晴継が没した後、南部家を誰が相続するかで争い、最後は南部信直が相続しました。それに異を唱えたのが九戸政実です。

九戸政実は実弟の実親推していました。それまでの経緯は複雑ですが、九戸党が信直の相続を不服として南部家に対して反旗を翻し、最終的には信直を支援する豊臣政権の軍勢が九戸城を攻略し、降伏した政実以下を斬首して解決したということが通説になっています。

九戸政実が九戸城に籠もって豊臣勢と戦ったのは、間違いない史実だが、そのときの当主が、どの「政実」であったかどうかは、実は確実な証拠がないのである。九戸政実の名が、歴史上に登場するのは、天文7年(1538)の日付で九戸神社に伝わる建立時の棟札で確認できます。

その札には、「大旦那源政実」と記されているそうです。「大旦那源政実」とは、源氏の血を引く政実という意味であるが、政実は56才で処刑されたと伝わっています。そうすると、天文7年(1538)は3才ということになり、果たして「大旦那源政実」と名乗り、神社を建立したとは考えにくいのではないでしょうか。

棟札の政実は既に元服していたと考えると辻褄が合いそうな気がします。そうすると、政実の年齢は、10歳ぐらい高くてもいいかもしれません。

それから推測する地。実弟と伝わっている実親は政実の長男とも考えられます。そう考えれば、南部家の相続争いに異議を唱えたことが、とても大きな意味を持ちそうです。

津軽家文書』には、永禄10年(1567)、政実が一戸宗綱を攻めた時、宗綱の二男勝五郎(11歳)が、九戸の二男弾正を射取ったとあるそうです。二男がいたということは長男もいたということですね。ということは、子供が亀千代だけだったという伝承と矛盾します。

天正19年(1591)の時点で、市左衛門という子がいたと伝わり、市左衛門は津軽に逃れ、津軽為信が保護を加え、御馬廻役知行400石を与えらとの伝説もあります。津軽家臣団に九戸某がいたとの記録もあり、興味深いですね。

また、『聞老遺事』によると、政実には九戸落城時に3歳ばかりの末子がいて、四戸氏の者が江刺黒石の正法寺に預け、成長ののち江戸に上り3000石をもらい堀野三右衛門と号し、元和年中(1615~24)陸奥国の巡見使として三迫にきて九戸神社に参詣したともつたわります。

はたして、歴史の真実は何処にあるのでしょうか。

https://youtu.be/iitnv1EGEKg


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