そのころの北東北 (昭和51年発行「天台寺 その謎に挑む」から)
「北方の人間」守る拠点?
山に囲まれた浄法寺町は今でも外部との交流はほとんど旧鹿角街道に頼っている。
冬は1メートル近くの雪に閉ざされ、農家の働き手の多くは葉タバコの収穫が終わると出稼ぎに行く土地柄だ。
天台寺はこの土地の小高い丘(標高320メートル)を拠点に早くから青森、秋田方面へと仏教の影響力を伸森嘉兵衛岩手大学名誉教授は「生きた人間にとって平地の方が食料を確保する点でも環境は良好なはずなのに“ばし、北東北の布教活動の中心になっていた。
山岳寺院”を築く必要はどこにあったのだろう」と疑問を投げかける。
天台寺の古い歴史を知る手がかりがない現在、研究者の考え方もまちまちだ。
高橋富雄東北大教授は「古代東北の地に、北に向かって伝播していった中央文化が、しっかりと根をおろしたことを物語る遺跡だ」と“歴史のシンボル論”主張する。
それによると「鎮護国家を旗印にした我が国の天台宗は9世紀半ば、その理想を実現しようと、六か国に法華経を置く塔(六所宝塔)を建てた。
関東以北では栃木と群馬がその地だ。天台寺はこの理想を北東北にも実現させようとしたものだ。
古代中央の軍事的北限は志波城が築かれた今の紫波郡あたりまでで、それ以北は蝦夷の住む‘異邦の地’であった。
青森、岩手、秋田の国境である地に建てられた天台寺は、北方の政治も文化も人間の生活も守るという大変な使命を負ったものだ」と主張。
“山岳寺院”の形にも「平地に寺院を建て学問所とした奈良仏教(南都六宗)に対して新興の天台宗は比叡山を厳しい修行の場としていた。
それは“守られたもの”ではなく、自らが“守る”ものとの気概だった。
天台寺も当然同じはずだ」という。
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