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2021年4月

2021年4月30日 (金)

不法投棄

朝の散歩中にテレビの不法投棄を発見です。


40年前ならよく見られた光景ですが、近頃は見かけませんでした。


なので、ちょっとびっくりでした。


どこに連絡すれば良いか調べています。


たしかに廃棄処分の費用が高額なので、こうした行動に出るんでしょうか。


はやく片付けてほしいものです。


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2021年4月28日 (水)

令和3年4月28日浄法寺城下

今朝の散歩。


浄法寺城跡を散策です。


この場所から浄法寺氏が去ってから400年以上。


この土地は、その歴史を見ているはずですが、多くを語ってくれません。


そんなことを思ってしまいました。


散歩の途中で漆の木が芽吹いているのを見かけました。


漆の抗菌作用で流行り病を蹴散らしてほしいものです。


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2021年4月27日 (火)

チューリップ

殺伐とした庭ですがチューリップが咲いています。


毎年、来年はきちっと咲かせようと思いながら、今年も殺伐としたままです。


球根さえ手に入れば夏とか秋にも咲かせられるんでしょうか。


どなたか、詳しい方は助言をお願いします。


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45年ぐらい前の稲庭岳

中学生のころの画像です。

稲庭岳の風景です。

今とほとんど変わっていませが、道路が舗装です。

今ほど観光客や登山者が多くなかったような気がします。

適度に便利になるのはいいのですが、便利を追求した観光開発は好きではありません。

皆さんはどう思いますか。

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2021年4月26日 (月)

全酪牛乳

地域の産業遺産です。

たかが牛乳瓶ですが、地域を支えた企業の遺産です。

40年前は、何ともないものでしたが、今となっては見かけません。

長年探して、やっと見つけました。

密かに喜んでいます。

これを機会に牛乳瓶を集めてみようかな。

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2021年4月25日 (日)

日々勉強

購入したまま仕舞い込んでいた参考書です。


漆器も良いですが、陶磁器も捨てがたい魅力があります。


良い器で飲む酒は確実に美味く感じます。


あなたのお気に入りを教えてください。


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2021年4月24日 (土)

滝見橋

陸奥浄法寺の名勝滝見橋です。

なかなか詩情を書きたてます。

大正時代は、特に稲庭吟社(?)などが盛んだったようです。

子供のころは何とも思わない川でしたが、四季の移ろいを感じながら眺めてみると、良いですよ。

泳だり魚を捕った思い出がありますが、現在はどちら禁止です。

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2021年4月23日 (金)

天台寺研究

昭和58年頃、この書籍が発行されましたが4000円という価格で購入できませんでした。


あれから37年、4500円で購入できました。


当時の基本給からすると、たぶん30倍ぐらいだったと思います。


さっそく読み始めました。


読書のための視野が狭くなっていて、読む速度が落ちています。


次の行への改行が、どうも上手くいきません。


でも、ゆっくりなら読めます。


全く見えない人に比べれば、視力を残してくれた神様に感謝です。


残りの人生で、天台寺を勉強したいと思います。


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本日の浄法寺城下 令和3年4月23日

本日の浄法寺城下、天気も良く暖かくなりそうです。

心配なのは山火事です。

畑の枯れ草などを燃やしているようで、煙が立ち上っています。

気を付けてほしいものです。

桜も、種類によっては散り始めました。

山桜はこれからです。

まもなく田植えです。

一刻も早い流行り病の終息を願っています。

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2021年4月22日 (木)

産直巡り

自転車で地域を回るようになってから、近くの産直に立ち寄る機会が多くなりました。

自転車で疲れた体に、串もちでエネルギー補給しています。

子供のころは洋菓子を食べたかったものですが、お祖母ちゃん味がなつかしく感じます。

ぜひ次世代に伝えてほしいと思います。

この串もちを焼いて、生きていける社会は幸せです。

そういった意味では、江戸の日本は世界最高水準の都市だったと思います。

日本を再評価したいこの頃です。

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ウズラ卵の串焼き

このごろよく作るのがウズラの卵串焼きです。

前回は失敗しましたが、今回は成功です。

殻ごと食べても大丈夫です。

今回は塩味でしたが、次回はタレ味で挑戦です。

意外に美味しいですよ。

癖になりそうです。

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2021年4月21日 (水)

決断

昨夜は、イベントの開催是非を打ち合わせです。


コロナ災いのなか、難しい判断でした。


一応、時期をずらして、何らかの形で行うという結論になりました。


議論が伯仲し、焼酎の四合瓶が空です。


まずは日常を取り戻してほしいものです。


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調べたいテーマ

久しぶりに調べたいテーマが見つかりました。

二戸地方の牧羊事業です。

以前から、明治初期から会輔社で牧羊事業を始めたのは知っていました。

そして、その時の羊は下総御料牧場から導入したと、明治生まれの先達から聞いた記憶があります。

しかしこの度、下総御料牧場を調べたら明治9年秋に羊がやってきたとありました。

陸奥福岡に羊がやってきたのは、明治9年6月末だったと思います。

そうすると、陸奥福岡の会輔社で買い入れた羊は、どこから買い付けたのか

もしかしたら、日本で組織だって羊を導入したのは会輔社かもしれないと、密かにワクワクしています。

調査を続行します。

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2021年4月20日 (火)

浄法寺の心和む風景です。

薪の積み方は芸術です。

浄法寺の爺ちゃんは、何事もなかったように作業をこなしています。

祖母は、道端に落ちていた枝で料理を作っていました。

ある意味で、本当のエコ生活でした。

ソーラーや風力発電がエコだと思っている、環境活動家にも気づいて欲しいです。

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2021年4月19日 (月)

天台寺関連本

中学生の頃の読んでいた本です。

40年以上の歳月を経て、偶然に入手しました。

当時は分からなかったことが、なぜか妙に納得してしまいます。

当事者も世代が変わり、ある程度客観的に語れる時代になったともいえます。

何とかして、天台寺を語りながら地域住民が暮らせたら、本当の意味で復興です。

そのほかの関連本を読み漁ろうかと思います。

やはり、今東光大僧正の著作から始めます。

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金田一の石割桜

盛岡の石割桜は有名ですが、金田一にも石割桜があります。

その存在を初めて知ってから、たぶん10年ぐらいになります。

そのころよりも、たいぶ太くなった気がします。

今年も咲いているかとは思います.

武漢肺炎の影響もあります。

来年こそは、肺炎騒動も収束して花見をしたい物です。

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2021年4月18日 (日)

へのへの

二戸駅ビルのレストランが名称変更します。

「へのへの」だそうです。

昨日の岩手日報に関連記事が掲載されていましたので紹介します。

今は、なんとなく違和感がありますが、時間た経てば馴染んでくると思います。

経営はIGRとなるようです。

地域を挙げて応援しましょう。

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かっけ

   関東の知り合いから、かっけは、岩手県と青森県と、どちらが本場ですかと聞かれました。ちょっと迷いましたが、馬淵川流域の食べ物だと答えておきました。しっかり調べたわけではありませんが、盛岡方面では、かっけが一般的でないようですし、津軽方面でも食べた話は聞きません。

 以前も、テレビ番組で「かっけ」という名称で、面白おかしく紹介されたことがあります。ところが、同じものを「つつけ」とも呼んでいます。地方の人は別なものと勘違いする時もありますが、実際は全く同じものです。

 ネイティブな、馬淵川流域の住民であれば、どちらも、さあ食べてくださいという意味になります。これは、私的な考えですので、語源としての正解かどうかは不明です。

 小麦粉を練って、麺のように細く切らず、延ばした生地を三角に切った
ものが「むぎつつけ」。蕎麦を同じように切ったものがそばかっけです。

 もちろん、人によって好き好きがありますが、親の幼少期には、麦は高級品で、かっけといえば蕎麦粉だったようです。タレは、なんといってもにんにく味噌です。ネギみそや、ショウガみそもいいですが、やっぱりニンニクです。子供の頃は、かっけと大根だけでしたが、このごろは、ちょっと豪華な鍋になっています。

 取り敢えず、昆布出汁で豆腐や大根、鶏肉と一緒に、かっけを投入します。ゆであがって浮かんで来たら食べごろという、シンプルな料理です。美味しいけれど、絶賛レベルの鍋料理ではありません。味と言えば、うどん生地を茹でたものに、味噌と生にんにくを混ぜたタレで食べるものですから、想像できると思います。でも、寒い雪の日なんかは、安上がりの鍋でほくほくと楽しめるのは間違いありません。

 ちかごろでは、かっけの生地を使ったピザなども作られています。こちらも、なかなか好評のようです。秘密基地に遊びに来て下さい。ごちそうしますよ。

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2021年4月17日 (土)

南部せんべい

 南北朝時代の頃、南朝の長慶天皇が名久井岳の麓(現・三戸郡南部町)、長谷寺を訪れ、食事に困った時に家臣の赤松助左衛門が近くの農家から蕎麦粉とゴマを手に入れ、自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出しました。この食べ物が後の南部せんべいの始まりであるとされています。この故事は、テレビCMなどでも放映され、多くの人に知られています。天皇はこの食べ物をとても気に入り、煎餅に赤松氏の家紋「三階松」と南朝の忠臣、楠木正成の家紋「菊水」の印を焼きいれることを許したといいます。

 八戸南部氏創始説
 応永18年(1411)の「秋田戦争」で、根城南部の兵士たちが戦場で蕎麦粉にゴマと塩を混ぜ鉄兜で焼いて食べたところ、将兵の士気大いに上がり、戦に勝利しました。その後多くの合戦に携行され、南部せんべいの始まりとなったとする説もあります。南部煎餅の分布が八戸南部氏の勢力圏と重なるので、何らかの関連がありそうです。

 キリスト創始説
 南部煎餅に文様は、古い時代には「松ヶ枝」が三段から五段つけてあったそうです。そしてその文様は何とユダヤ章に酷似していました。旧約聖書の「民数紀略六章三節ー二十一節」に、「モーゼの律法の一つに、俗を離るるの日の満たる時、幕屋の門に携えて行く供物のなかに、酵(たね)いれぬパン一かご、麦粉に、油をまぜて作る菓子、油をぬりたる酵入れぬ煎餅をもちてゆくこと」という律法があるそうです。油をぬり酵いれぬ煎餅とは、実に現在の「南部煎餅」の事だという説です。

 キリスト創始説は、一見すると荒唐無稽な説ですが、トルコ地方には煎餅焼器と同じような器具があったような文献を読んだ気がしますし、「酵いれぬパン」とは、まさしく南部煎餅のような気がします。
 煎餅の模様の「松ヶ枝」は、キリストが八戸港の松ヶ崎に上陸した「松の森」を記念として、今日まで残したとも言われます。ユダヤ教徒が祭で食べる、種無しパンのマッツァーが変じて南部煎餅になったとすれば、壮大な歴史ロマンです。以前の、カゴメ紋の入った南部煎餅もあったとも伝わりますので、カゴメ印を入れて売り出せば地域の話題になりそうです。子供のころには煎餅にカゴメ紋があったのを何となく覚えています。

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カツカレー

今日の昼の憩いはカツカレーです。

二戸バイパス南口の「味」で食しました。

ここの味は好きです。

欲を言えば、もう少し辛ければ最高です。

他のメニューだと、冷麺が気に入っています。

ぜひ、食べてみてください。

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特別価格で提供

桐箱入りの夫婦椀。

一セットだけですが、時別価格で提供させていただきます。

通常は8000円以上の品物ですが、送料含んで5000円です。

発送は普通郵便とさせていただきます。

よろしくお願いいたします。

ご希望の方は、メール送信フォームからお問い合わせください。

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修理品

江戸末期と思われる片口。

修理の途中で放置していました。

欠損部分は漆で作って、割れた部分は接着しました。

本当に、強力な接着力です。

これから研いで形成しますが、これが地道な作業なんです。

気長に頑張ります。

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2021年4月16日 (金)

美酒 爛漫

子供心に残っているテレビコマーシャルに、日本酒の、美酒、爛漫があります。昭和40年代のことでした。どのようなコマーシャルだったか忘れましたが、爛漫という響きが残っています。大人になってから知りましたが、爛漫は秋田湯沢の酒でした。

近くの商業施設で、「むかしながらの にごり酒 」という張り紙に引かれて、爛漫の濁り酒を購入してみました。とろりと、新鮮な甘味と、滑らかな口当りで、子供の頃に、婆ちゃんが作ってくれた甘酒を思い出す味でした。

もろみの風味が、なんとも言えず懐かしいです。酒どころ、秋田にふさわしい酒です。

肴は、本当であれば、秋田のイブリガッコが欲しいところですが、本日は我慢します。

醸造元の「秋田銘醸株式会社」は、大正11年、“良質な米と豊かな水によって造られた秋田の酒を全国へ、”という願いと期待を受け、当時の酒造業ほとんどが、伝統的な家内工業でしたが、県内酒造家や政財界人等の出資者によって、株式会社として設立されました。県外市場で「美酒爛漫」の地盤を築くため、品質の優れた酒を安定供給が必須の条件と考え、設立当初から、量産可能な近代的設備を導入し、銘柄「美酒爛漫」は、一般公募によって選出したのだそうです。

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15年前の画像 梅田川分校

古いデータの中に、奇跡的に母校(小学校)の画像が残っていました。

15年ぐらい前のものです。

この数年後に取り壊され、今は畑になっています。

最後の在校生も成人を迎えています。

数年後には貴重な写真になるかもしれませんね。

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2021年4月15日 (木)

岩手日報記事から 漆の話題

本日の岩手日報に漆関連の記事が出ていましたので紹介します。

漆木の植樹に関する話題です。

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安比川流域の漆文化、「塗師のむら」 

 八幡平の西に約五キロ、ここから安比川の源が発している。この源ちかくに、赤坂田というむらがある。昔は、川に沿って、幅五、六尺の道があったが、明治二十五年頃に、県道となった。現在は、花輪線の「あかさかた」駅があるので、面目は一新した。川に沿う水田から米がとれるようになったのは、昭和二十年以降のことで、それまでは稗を作つけていた。むらの人々が、全く稗を食わなくなったのは、昭和二十八年ごろからのことである。「もとむら」の荒屋新町の人たちからは、「赤坂田のマス」と軽蔑されていた。マスとは猿のことである。むらの人たちも、そういわれると仲良くなるはずはないので、結婚圏も隣の郡まで伸びていた。

 近ごろ、急速に住宅が改造されたり、新築されたが、そういう近代的な建物の中に、小さな古い土蔵が残されている。これが塗師の仕事場であり、塗り物の乾燥場である。

 隣村の門崎も、この村と同様に塗師のむらであった。この地方で有名な、浄法寺椀は、こういうむらからつくりだされたものである。南部塗の沿革によると、次のようになっている。

「この漆器は、浄法寺の天台寺の衆坊が、この技法を伝習したのが、秀衡以前のことであろう。次いで、衣川の没落者が、荒澤村の浅沢地方に来住して、次第に同業者ができるようになり、生産品は、天台寺の参拝者に供給した、というのが草創期で、その後、南部塗というようになり、その後、次第に販路が広がり、その名称が御山御器とか、浄法寺御器と呼ぶようになった。この御器が、盛んになったのは、寛文から享保までの七十年間で、地元にも問屋ができるようになったが、重要がふえるようになると、粗製濫造となって信用を失うものもできるようになり、それに、宝暦、天明の凶作で打撃を受けたが、文化文政の時代には、再び盛んになり、明治になると販路が北海道までおよぶようになった。」というのだが、これが昭和三十五年ごろに現れた、ベークライトの前にひとたまりもなく、この長い歴史を閉じなければならなかった。

 この浄法寺椀というのは、一般の農家が毎日使う物であった。だから需要も多かった。農家では、この椀のことを三ツ椀とか鉄鉢椀などといって愛用していたが、大正の末頃に、茶碗が入り込んできた。漆器と違って、壊れやすいので、取り扱いに注意しなければならなかったが、模様とか色とか、大きさなどによって、家族がそれぞれ個人別に使えるという便利さがあった。しかし、現在でも、寄り合いのような人の集まるときの食事には、昔の浄法寺椀を使っているところが多い。

 明治十年ごろ、汁椀一枚一銭、三ツ椀が四銭であった。

(参考文献 高橋九一箸 むらの生活史)

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2021年4月14日 (水)

浄法寺五段重の「一部を発掘

近所の解体現場から連絡がありました。

古い漆器があるから持っていってほしいとの事。

大半が昭和40年代以降のベークライト製品でした。

その中に、犬のエサ入れとして使っていたのが画像のものです。

秘かにお宝ものです。

本来は五段重だと思いますが、一段だけの発掘でした。

発掘できただけでも幸運でした。

古漆器博物館に飾りたいと思います。

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春の恵み

陸奥浄法寺の産直には春の恵みが並んでいます。

格安な値段で、春の味が堪能できます。

先日は行者ニンニクを購入しました。

味噌汁の薬味、焼き肉に入れたり、醤油漬けなど、なんにでも利用できます。

子供の頃の思い出に、春の野山で行者ニンニクを踏みつけて、春を感じたものでした。

自然界からの恵みに感謝しながら食しています。

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先週末の浄法寺城

陸奥浄法寺地方にも遅い春がやってきました。

これでも、桜の開花は例年より10日ぐらい早い予定です。

あらためて浄法寺城を遠くから眺めると、その規模の大きさがわかります。

九戸城に匹敵する大きさです。

北奥州の名族だったことがわかります。

今度、じっくり観察会でもしませんか。

遊びに来てください。

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2021年4月13日 (火)

昭和55年夏の写真

40年前はチャリダーでした。

一泊で、十和田湖や種差海岸などにキャンプをした者でした。

今から考えると、信じられないくらいに体力がありました。

峠も一気に自転車で駆け上がった記憶があります。

いまは、ほとんど無理はしないで押すことにしています。

体重が10kg増えていますので、それを落とすことを目標にします。

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こんなのも出店されていました

浄法寺の市日には、こんなものも出店されていました。

技術を売り込むのも良いですね。

法に反しない限り、何でも商品になりそうです。

刃物研ぎの技術なんかも良いかも。

良い提言がありましたら、どうぞよろしくお願いします。

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2021年4月12日 (月)

三斎市は楽しい

浄法寺では一月に三回、2のつく日に市日が開催されます。

かつてほどではありませんが、今でも出店があります。

今日は、その三斎市をのぞいきながら、大好きは大判焼きを購入しました。

なんとなく、地域の商店活性化のヒントが有るような気がします。

浄法寺に遊びに来て下さい。

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産直巡りは楽しい

自転車で往復10kmをサイクリングしました。

途中で「キッチンガーデン」に立ち寄りました。

入り口に漆の木が立てかけてあります。

浄法寺ならではの風景です。

産直では、草餅と野菜を購入しました。

次回は往復30kmの産直へサイクリング予定です。

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2021年4月11日 (日)

昨夜は南部美人とウニ烏賊で晩酌

昨夜は二戸の酒と南部美人で晩酌です。

とても良い組み合わせで、酒が進みました。

器は、二戸地方独特の「こぶくら」です。

そろそろ再生産の要望があります。

木地を探して再生産したいと思います。

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2021年4月10日 (土)

氷コップ

秘密基地に氷コップが仲間入りしました。

なぜか子供のころから氷コップが好きでした。

一時期は、氷コップが高額で買えませんでしたが、このごろは落ち着いてきたようです。

次はかき氷製造機を狙っています。

でも、ヤフオクで検索したら、ちょっと手が出ない価格でした。

気長に探します。

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一力食堂のチャーシュー麺

どうしても食べたくなった一力食堂のチャーシュー麺。

今日の昼には挑戦したいです。

昨日の雪から一転、春の陽気が戻りました。

断捨離も含めて片付け作業を実行します。

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2021年4月 9日 (金)

日本綿羊の発祥地は陸奥福岡

 明治9年6月に、陸奥福岡にやってきた羊はどこから連れてきたのかと疑問が湧きました。明治生まれの諸先輩から聞いた、下総御料牧場を手掛かりに調べ始めました。

 成田市の広報誌によれば、アップ・ジョーンズ(D. W. Ap. Jones)という人物が、御料牧場の開設に大きく関わっいることがわかりました。
アップ・ジョーンズは、1830年、ア メリカで生まれ、明治初期に来日したといわれています。明治6(1873)年9月、自費で関東地方を回り、牧羊業に適当 な土や気候を調査し、大隈重信内務卿に綿羊事業についての意見書などを提出しました。
当時は外国人に営利事業は認められていませんでしたが、勧業権頭の河瀬秀治から「政府の雇い人とし、 政府の事業とすれば支障がない」との答申がありました。

 そこでジョーンズは、明治8年に勧業寮の御雇外国人として採用されます。内務省勧業寮には牧羊開業取調掛が新設され、長官に岩山敬義 、技術面での最高責任者にジョーンズが任命されたのです。  
牧羊場開設の準備はジョーンズを中心として進められ、用地 選定のため、千葉・茨城・栃木県下の原野が実地調査されます。
明治8年11月、全ての用地の買収を待たず下総牧羊場が開場し、初代場長に岩山敬義が就任します。ジョーンズは東京から七栄村(現在の富里市七栄)に移ります。

 開場後、ジョーンズは、綿羊・馬などを輸入するため清国などに赴むき、明治9年11月には清国から、 翌年にはアメリカ・清国・オーストラリアから綿羊を輸入することに成功しました。

 また、牧羊場は明治9年以降、各府県から1人ずつ生徒を募り、 牧羊方法、牛馬豚管理方法、西欧農具用法などの講義と実習を行い、多くの卒業生を全国各地へ送ります。

 蛇沼政恒も、明治11年には下総御料牧場から羊を貸与されています。明治14年には下総御料牧場で牧羊の勉強もしています。
 しかし、成田市の広報誌を素直に読めば、下総御料牧場で羊の飼育を始めたのは、明治9年11月からということになります。そうすると、明治9年6月に陸奥福岡にやってきた羊はどこからやってきたのかという新しい疑問が出てくるのです。

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二戸郡の南部椀

   二戸郡の漆器は来歴甚だ古く、約九百年前いまだ轆轤を用いざりし頃、既にその業在りしものの如し。旧記に高倉天皇の嘉応年間秀衡が平泉に無量光院を創建せし当時に其の産遠く京師に伝えて奥州秀衡椀等の名ありきと伝う。郡内浄法寺村の八葉山天台寺山中の衆坊が其の業を平泉に伝習して食器等を製造し、登山の参拝者に販売し相尋いで衣川の没落者が浅沢地方に来往しその業を伝え、漸次同業者を生じ製作品は之を浄法寺に掲げり。最れ
二戸郡漆器の創業時代にして今を距る七百数十年前のことに属す。

 後南部氏の治に入りて南部椀と呼び、其の模様あるものを南部模様と称え、天台寺の例大祭には境内二の丸は露店をなし販路漸く拡張せられ御山御器、浄法寺御器等の敬語さえ用いらるるに至れり。御山は天台寺所在の地なり。

 天正年間九戸政実征討の軍に参加し来れる蒲生氏郷が凱旋の切、漆工若干を伴いて其の製作を伝えしものを会津塗の祖となすとの説あり。

 承応明暦年代田山村に、寛文年間浄法寺村松岡に、御用木地師を置かる。松岡の木地師左衛門四郎の子孫荒沢村赤坂田に住し其業に関する故録記古証文等を蔵す。寛文より享保に至る七十年間に其の産額著しく高まり、寛延宝暦の頃に至つては福岡一戸方面の塗師職人を有せざる地方にも漆樹の栽植年々多きを加え、漆商競いて浄法寺市日に出でて当地方の漆器職人を迎えたり。而して一方是等の製品を売捌かんが為に浄法寺には伊勢屋、大和屋、浅沢には加賀屋、枡屋等の商人を生じ、盛岡には塗物問屋勝山長十郎あり、在方売買には鉈屋町武兵衛あり、各々資金を投じ南は盛岡仙台方面より東海岸に及び、北は三戸郡の櫛引八幡宮の祭日に販売し、西は秋田に移出し年々多額の生産あり、同業者は次第に殖えて、安比の流域を遡り、荒屋方面にも生じ更に山脈を横切って田山村にも生ずるに至り、却って浄法寺は日に月に其の数を減ずるに至れり。

 勢斯くの如きものあり、隋って工人互いに其利を争い、粗製濫造信を需要者失うものあり、加うるに宝暦天明の二大凶作に依って尠からざる打撃を蒙るりしも、寛政のの晩年より再び台頭し、文化文政の頃に至っては恢復全く成り隆運往時を凌ぐに至りき。斯くて徳川氏の晩年に至っては、現在の荒沢村漆器の産地となり、浄法寺は市場たるの観を呈するに至れり。

 維新後一時大に衰頽せるも、明治三十一年九月二戸郡漆器組合を設立し、木地の改良、下地の改良等に努る所あり、同四十三年四月、県、郡、村等の補助並びに有志の寄付金に依って荒沢村に蒔絵伝習所を設け、金沢より教師を招き数年間村内の子弟に髢漆及蒔絵の伝習を行い傍ら付属木地挽工場に於いて木地の改良研究を行い一時其の成績見る可きものありき。斯くの如きして笠井知事の時代には最も奨励に力を注ぎ年間数百円の補助金を支出し凡そ大正四五年の頃までは当局の奨励と当業者熱心によりて漸次進歩し来りたるも、次第に原料の不足、大量生産地の圧迫、其の他の原因により再び不振の状態に陥り、又爾来農家の副業として発達し来りたる関係上次第に粗製安価に隋し昔日の盛況を窺うことを得ざる迄に至れり。

 現在二戸郡漆器は荒沢村を主として浄法寺村、一戸町の三箇所に於いて年額八万円程の産額を有す。浄法寺村は荒屋新町、田山、小屋ノ畑、保戸坂、萩畑、赤坂田等の部落に製造家散在し年額約七万円位の製産を見る

 生産形態は純然たる家内工業又は農家の副業の形態にして、製品の殆ど全部は日用安物の椀なり。販路は附在方及び北海道方面にして月三回浄法寺村に於いて市を開き福岡町方面の仲買商人の手に買い取らるる状態なり。目下製品は極度に低下し椀の如き一個卸売七、八銭の程度ありと、其道奨励指導の施設として何等見る事えを得ず此の儘に推移せんかあたら古き伝統を有する浄法寺椀も此の儘次第に廃滅し終わらん、近時漆樹栽培の声大に宣しく県に於いても近く荒沢村付近い漆樹の栽培を計画しつつありと。

 以上の文献は出典を忘れましたが、昭和3年ごろの二戸郡漆芸の証言です。過去の文献をそのまま記述してあったり、微妙に訂正しなければならない部分がありますが、90年前の浄法寺漆の状況を伝える資料です。

https://airinjuku.jp/joboji/joboji-hidehira/rekishi-top.html

 

 

外は雪

季節外れの雪が降りました。

人生58年の歴史では、5月3日に積もった記憶があります。

桜の花が心配です。

餌の亡くなった小鳥が、桜の蕾を食べてしまうのです。

無事開花することを祈ります。

https://airinjuku.jp/

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2021年4月 8日 (木)

珍味

間もなく収穫できる珍味。

漆の若芽です。

収穫する際には白い樹液が出ますが、それに触れなければ被れません。

てんぷらにすれば普通に食べられます。

都内の料亭では珍味として提供されているようです。

食べてみたいかたは浄法寺まで遊びに来て下さい。

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日本牧羊の先駆者・蛇沼政恒

居猿山総左衛門は蛇沼家の先祖です。

 

 南部家の祖・光行公が陸奥の地に赴いた行路は、陸路説、日本海説、太平洋説があるようです。その中の太平洋説によれば、甲斐の国南部荘に勢力のあった南部光行公は、平泉攻略で戦功があり、その恩賞で陸奥糠部郡を下付されました。

 

 その新領地に赴こうとし、鎌倉の由比ガ浜を建久二年(1191)10月に出港しました。主従が70名余りで、6隻の船に分乗したと言われています。

 

 八戸浦に着いたのが12月18日で、そのまま馬淵川を溯りました。現在の相内付近まで進んだところで日没となります。光行公は近くの観音堂に宿をとっていたところ、近くの豪族・居猿山惣左衛門がやってきた。

 

 居猿山惣左衛門は、「私の領地に見知らぬ人がやってきた。」と思って、光行公一行を一括しようとしてやってきたが、鎌倉武士の立派な風s姿に戸惑います。

 

 そして、あり合わせの鮭の半身と濁り酒を献上しして歓待します。そのことを光行公は大いに喜び、居猿山惣左衛門を家臣に加えたのでした。

 

 この時の出来事は、明治の代まで恒例となって、毎年正月には蛇沼家では鮭の半身と濁り酒を献上し、上座客分の付き合いをします。蛇沼家は居猿山惣左衛門の子孫です。

 

 ある年、蛇沼家では「いまさら鮭の半身でもあるまい。」とすて一匹献上したところ、南部公は「昔の故事を忘れるとは何事か。半身に致せ。」と叱ったと言います。

 

 明治の廃藩置県により、藩主も東京に住むことになり、南部公の身を案じた蛇沼政恒も一家を挙げて東京に移住します。そこで旧藩主の導きで牧羊を学び、日本牧羊の先駆者となったのです。

 

Kikou97

 

2021年4月 7日 (水)

漆の若芽

まもなく漆の若芽がでます。

てんぷらで食べられます。

東京では、高級食材として売られているようです。

採取の際に、白い樹液に被れる人もいるようですが、てんぷらにすると何ともありません。

期間限定で、試食会でもやりましょう。

三人限定で準備しますよ。

Urushime

画像は5年前の4月末のものです。

https://airinjuku.blog.fc2.com/

 

二戸郡の南部椀

二戸郡の南部椀

沿革

 二戸郡の漆器は来歴甚だ古く、約九百年前いまだ轆轤を用いざりし頃、既にその業在りしものの如し。旧記に高倉天皇の嘉応年間秀衡が平泉に無量光院を創建せし当時に其の産遠く京師に伝えて奥州秀衡椀等の名ありきと伝う。郡内浄法寺村の八葉山天台寺山中の衆坊が其の業を平泉に伝習して食器等を製造し、登山の参拝者に販売し相尋いで衣川の没落者が浅沢地方に来往しその業を伝え、漸次同業者を生じ製作品は之を浄法寺に掲げり。最れ
二戸郡漆器の創業時代にして今を距る七百数十年前のことに属す。
 後南部氏の治に入りて南部椀と呼び、其の模様あるものを南部模様と称え、天台寺の例大祭には境内二の丸は露店をなし販路漸く拡張せられ御山御器、浄法寺御器等の敬語さえ用いらるるに至れり。御山は天台寺所在の地なり。
 天正年間九戸政実征討の軍に参加し来れる蒲生氏郷が凱旋の切、漆工若干を伴いて其の製作を伝えしものを会津塗の祖となすとの説あり。
 承応明暦年代田山村に、寛文年間浄法寺村松岡に、御用木地師を置かる。松岡の木地師左衛門四郎の子孫荒沢村赤坂田に住し其業に関する故録記古証文等を蔵す。寛文より享保に至る七十年間に其の産額著しく高まり、寛延宝暦の頃に至つては福岡一戸方面の塗師職人を有せざる地方にも漆樹の栽植年々多きを加え、漆商競いて浄法寺市日に出でて当地方の漆器職人を迎えたり。而して一方是等の製品を売捌かんが為に浄法寺には伊勢屋、大和屋、浅沢には加賀屋、枡屋等の商人を生じ、盛岡には塗物問屋勝山長十郎あり、在方売買には鉈屋町武兵衛あり、各々資金を投じ南は盛岡仙台方面より東海岸に及び、北は三戸郡の櫛引八幡宮の祭日に販売し、西は秋田に移出し年々多額の生産あり、同業者は次第に殖えて、安比の流域を遡り、荒屋方面にも生じ更に山脈を横切って田山村にも生ずるに至り、却って浄法寺は日に月に其の数を減ずるに至れり。
 勢斯くの如きものあり、隋って工人互いに其利を争い、粗製濫造信を需要者失うものあり、加うるに宝暦天明の二大凶作に依って尠からざる打撃を蒙るりしも、寛政のの晩年より再び台頭し、文化文政の頃に至っては恢復全く成り隆運往時を凌ぐに至りき。斯くて徳川氏の晩年に至っては、現在の荒沢村漆器の産地となり、浄法寺は市場たるの観を呈するに至れり。
 維新後一時大に衰頽せるも、明治三十一年九月二戸郡漆器組合を設立し、木地の改良、下地の改良等に努る所あり、同四十三年四月、県、郡、村等の補助並びに有志の寄付金に依って荒沢村に蒔絵伝習所を設け、金沢より教師を招き数年間村内の子弟に髢漆及蒔絵の伝習を行い傍ら付属木地挽工場に於いて木地の改良研究を行い一時其の成績見る可きものありき。斯くの如きして笠井知事の時代には最も奨励に力を注ぎ年間数百円の補助金を支出し凡そ大正四五年の頃までは当局の奨励と当業者熱心によりて漸次進歩し来りたるも、次第に原料の不足、大量生産地の圧迫、其の他の原因により再び不振の状態に陥り、又爾来農家の副業として発達し来りたる関係上次第に粗製安価に隋し昔日の盛況を窺うことを得ざる迄に至れり。
 現在二戸郡漆器は荒沢村を主として浄法寺村、一戸町の三箇所に於いて年額八万円程の産額を有す。浄法寺村は荒屋新町、田山、小屋ノ畑、保戸坂、萩畑、赤坂田等の部落に製造家散在し年額約七万円位の製産を見る
 生産形態は純然たる家内工業又は農家の副業の形態にして、製品の殆ど全部は日用安物の椀

 

山椒大夫の元になった天台寺伝承

昭和49年に七戸に住む方から「天台寺由来記桂泉観音之御本地」の写本が浄法寺町の教育委員会に寄贈された。

この写本には作者として近松門左衛門の名前があった。

熱心な信徒が灯台一流の浄瑠璃作家、近松門左衛門に手紙を書き、寺にまつわる伝承を浄瑠璃にするように依頼したと考えら、この物語は信徒の間に広く流布していたらしく、天台寺が奥州随一の霊場として全国的に知られていたと想像される。

この物語は浄法寺の安比川にある滝見橋が舞台である。

この地方には山田の長者と呼ばれる富豪が住んでいた。

甲斐の国司が天皇の怒りを買い、陸奥の浄法寺に流される。

妻子はその後を追うが、人買いに騙され、二人の子供は病気と虐待で亡くなり、妻も自殺する。

残った子供達も離ればなれになり、松若という子だけが父に再会できた。

父は許されて都に帰るが、松若は山田の長者に身を寄せた。

しかし長者の女房の恋恋慕を嫌い仏教修行にでた。

途中で仏の化身が老僧に化けて松若に告げた。

「紫雲に乗り西方浄土平へ行き死んで阿弥陀になっている母に会うがよい。

そして投げた石が落ちたところに住み、衆生済度せよ。」と命じた。

石を投げたところ浄法寺に落ちた。そのころ都でも天皇の夢の中で、観世音から衆生済度のお告げを受けた。

そこで高僧行基を浄法寺に派遣、山田の長者と一緒に天台寺を造った。

松若は観音の現身であり、その現身に心を寄せてしまった長者の女房は滝見橋に身を投げてしまった。

この由来記は森鴎外の「山椒大夫」の安寿と厨子王の秘話の源流と言われている。

 

Kikou107

2021年4月 1日 (木)

漆の資料

そろそろ、残りの人生で資料をまとめたいと思います。

40年ぐらい集めた漆の資料。

世に出したいと思います。

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