夜食椀
祖父の世代が夜食椀と呼んでいた椀です。
これを使えるのは浄法寺ででも数少なかったといっていました。
旧家の農作業の手伝いの最終日、酒と米の飯が振舞われたそうです。
その際に「こくそ煮」がこの椀で出てきて、最高のごちそうだったと聞きました。
「こくそ煮」は身欠きにしんとゴボウなどを煮込んだものです。
いまの子供には不評で、個人的には苦手でした。
ですが、還暦間近になった今は大好きな味です。
作れる人も少なくなったようです。
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祖父の世代が夜食椀と呼んでいた椀です。
これを使えるのは浄法寺ででも数少なかったといっていました。
旧家の農作業の手伝いの最終日、酒と米の飯が振舞われたそうです。
その際に「こくそ煮」がこの椀で出てきて、最高のごちそうだったと聞きました。
「こくそ煮」は身欠きにしんとゴボウなどを煮込んだものです。
いまの子供には不評で、個人的には苦手でした。
ですが、還暦間近になった今は大好きな味です。
作れる人も少なくなったようです。
二戸地方には魅力的な手仕事が伝わっています。
一戸(鳥越)の竹細工は有名ですね。
手仕事展などでその技巧を観ていると、まさに魔法の技法です。
インテリアとして飾っても見映えがします。
時々展示即売会が開催されます。
東京から日帰りできる距離です。
作品を見て、気に入った物を購入して下さい。
平凡社から出版されている工芸志料は、太古から明治初年にいたる日本工芸の歩みを,膨大な古文献を渉猟駆使して叙述する名著。
類書のない貴重な史料集として,またユニークな通史として,本書は今なお不朽の名声を保っている。
その中で浄法寺椀に関する記述。
・・・工芸志料328ページ・・・
○高倉天皇の御宇、陸奥の南部の工人漆器を製す。これを南部椀という。
・・・工芸志料332ページ・・・
○天正年間、此の際陸奥の会津の工人、或いは南部椀模擬し或いは新意を出して多く漆器を製す。これを会津塗という。
以下は管理人の雑感です。
高倉天皇は応保元年9月3日(1161年) - 治承5年1月14日(1181年)は、平安時代末期の第80代天皇。
在位:仁安3年2月19日(1168年) - 治承4年2月21日(1180年)です。
この時代は平泉文化の末期と重なり、この頃の陸奥の南部の工人とは、どの地域の工人かは悩むところです。
ここでいう南部とは、南部氏の事だと思うので未だ陸奥の北部には勢力を持っていません。
天正年間に、九戸城攻略の責任者は蒲生氏郷であり、一説には九戸攻略後に漆工職人を会津に連れ帰ったとあります。
江戸期以降、浄法寺と会津の漆工はお互いに品物や漆を融通したと思われる資料も残っています。
https://airinjuku.web.fc2.com/
漆芸の歴史を書いた本の中で以下の記述を見つけました。
○会津塗は岩代国会津郡若松町に於いて製する所のものなり。天正十八年蒲生氏郷、会津の領主となる。氏郷漆工に命じて、創めて南部椀に模擬して以て漆器を製しむ。是を会津塗といい、其の椀を会津塗といい、其の椀を薄椀と云い、其の盆を薄盆と云う。其の中に或いは抹金の描画を少しく施して、製を南部塗と異にせる者なり。
この記述を読んで小学校時代に聞いた話を思い出した。
確か小学校の5年生の頃だったと思う。郷土史にも造詣の深かった深かった稲葉浅吉校長が、浄法寺と平糠について語った。
「中世の平糠には浄法寺氏の一派がいて、砂金や漆を採取していた。天台寺の寺領もあり、漆塗りの椀なども造っていた。平糠の南方には姉帯城があり、そこの大将も漆塗りの椀が気に入り日常から愛用していた。天正年間、豊臣の軍勢が九戸城攻略に奥羽街道を北進してきた。姉帯城の城主姉帯兼興とその一党は九戸方に参戦し、蒲生氏郷軍三万人に対してわずか五百で奮闘し蒲生軍苦しめた。姉帯城を攻め落とした蒲生氏郷は、姉帯城内で見事な漆塗りの椀を見つけた。どこで造ったかを村人に聞いたところ、平糠の長者で造ったとのことであった。九戸城を落城させた氏郷は、会津に帰郷する際に再び平糠を訪れた。漆工職人を連れ帰るためである。この際、数名の職人が会津に移住した。」
この話は40年以上前の朧気な記憶である。
この時の稲葉校長に話を裏付けようと図書館などを回ったが、明確な資料は見つけられなかった。
浄法寺氏の祖・阿闍梨重慶の伝説は平糠にもあることから、平糠の漆工も全くの荒唐無稽な物語でもないような気がする。
果たして姉帯城主の使っていた椀はどんなモノであっのか。想像すると楽しい。
名付けるとしたら「兼興椀」だろう。
二戸地方に伝わっていた片口。
発掘したのは25年前。
3個は青山の骨董商と物々交換。
1個は前二戸市長へ❗
最後の1個は残す予定でしたが、某ミュージシャンがどうしてもということで😅
幻の人が、あざみの如く棘刺すような言葉で買っていただきました✨
今は京都で使われていると思います。
平凡社から出版されている工芸志料は、太古から明治初年にいたる日本工芸の歩みを,膨大な古文献を渉猟駆使して叙述する名著。
類書のない貴重な史料集として,またユニークな通史として,本書は今なお不朽の名声を保っている。
その中で浄法寺椀(南部塗(はどのように書かれているのか?
・・・工芸志料360ページ・・・
南部塗
南部塗は陸奥国の南部の地に於いて製する所の者なり、世人これを称して南部塗という。赤塗の者多し(六七百年前に造る所の南部塗の漆器今尚お存す。或いは云う。高倉天皇の御宇陸奥守藤原秀衡、工人に命じて創めて製せしむる所の者なり。故に後世此の器を称して秀衡椀と云うと)。
南部椀と称するものは、内は朱色にして外は黒色なり。又黒漆の上に朱漆(又青漆、黄漆をも用いたり)を以て或いは鶴或いは花卉を描き、処々にに方切したる金箔を付着し、其の朱色煒燁なり。点茶家以て飯器と為す。最も雅致あり。
染戸其の花章を模倣して布帛を染むれば、之を称して南部模様というに至る。その愛玩せしこと以て知る可し。
又正法寺椀と云うあり。江刺郡の正法寺に於いて製せし所の者なり。或いは云く、正平年間僧無底という者あり。陸奥国江刺郡黒石寺において一寺を創建す、号して正法寺と云う。又黒石精舎という。正法寺は禅宗にして越前国永平寺、能登国総持寺と共に一派の総本寺たり、故に諸国の僧徒来聚するもの夥多なるを以て、正法寺に於いて使用する所の食器の椀も亦其の数多くしてしかるべからず。故にこれを造ること甚だ多かりなるべし。其の造る所の椀に類似せる者四方に伝播くせしより、世人これを正法寺椀と称するに至りしならんと。
又云く、南部椀は陸奥の九戸郡(二戸郡の間違い)浄法寺村より出づ、同郡畑村にて椀を作り田山村にて漆を塗る。此の地皆南部氏管たりしを以て故に南部椀と称せり。而れども南部にては浄法寺椀といい、他の地にては南部椀という。
後世に至りては江刺郡の正法寺に於いて漆器を製出せず、而して浄法寺村に於いて漆器を製す。亦南部椀という。其の他の工人巧みを伝えて今に至る。
秀衡椀と称される物で平安鎌倉期に属する物は現存しない。後世のこの名称からいわゆる秀衡椀系の物の時代を古く考えるようになったのではなかろうか。秀衡椀、正法寺椀、浄法寺椀はそれぞれ系統を異にする所があるようであるが、それぞれの歴史はあまり明瞭でない。
(続く)
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瀬戸内寂聴尼が、浄法寺町の天台寺に赴任したころに作った片口です。
同じものは寂聴尼にも利用いただきました。
二升いりで、現在はほとんど使われません。
ともかくこの大きさに圧倒されますね。
木地の関係で同じものはもう作れないかも。
作ったとしたら、30万円ぐらい?
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一昨日、岩手県二戸市浄法寺町でロケが行われていた~いわて漆紀行うるしびとが紡ぐ伝統~が放送されました。
録画を忘れてしまったのが残念ですが、漆を語るには浄法寺を語らなければいけません
何とかして「浄法寺の漆」で多くの人が生きていけたらいいと思います。
浄法寺の漆をよろしくお願いします。
浄法寺町は岩手県北部で、町には八葉山天台寺という中尊寺より開基が少し古い寺がある。この町は昔から漆の原液の集産地として有名であり、私が初めて浄法寺に行ったのは昭和40年頃は漆の掻き子が12名ほどいた。
浄法寺の箔椀は南部藩の注文によって作られていたため、古文書が残っている。それによると「箔椀や木地を横流しした者を掴まえれば褒美として具持ちを渡す」という内容で、「正保2年6月20日(南部文書)」とあるが、かなり厳しく取り締まっていたことがわかる。
南部箔椀は、秀衡椀の影響を受けているが、秀衡椀とははっきり違った特色を持っている。
形は秀衡椀が縁が内にかかえ気味で高台が曲線状で黄漆をあるのに対し、浄法寺椀は縁は内にかかえず、高台も直線状で外に開いていて秀衡椀との違いがはっきり解り、紋様は秀衡と較べるとかなり様式化されている。雲型の縁も単調になり、したの方まで下がり、その方形の切箔を四枚菱形に置き、その間に太めな箔を一枚置いている。また、雲形の中に紅柄漆で細い線を網代状に描いている。花などの紋様は秀衡は十数種類あるが何故か浄法寺箔椀は枝菊ががほとんどで、菊の花が二三輪に蕾と葉がかなり達者な筆致で描かれている。その菊紋は黄漆・黄粉蒔絵、また箔絵の場合は引っ掻きか、描き割りで花弁を描いている。また、高台に鋸状の切箔を置いたものもあり、秀衡より過食が多く手が込んでいる。この箔椀は四重、それに吸物、壺、平椀を加えた五つ椀もある。この椀は秀衡同様、身分のある旧家に伝わっている。
宮城県金成の有壁本陣に秀衡椀とともに伝わる南部箔椀は、殿様などの接待用使っていたということである
浄法寺にはこのような上手の椀のほかに、一般庶民用の雑椀や酒上などがあり、北海道にも大部出したという。雑椀は内外黒で胴に赤漆で草花や鶴、鹿などが少ない筆数で巧みに描かれたものや黒や紅柄の無地がある。また六寸ほどの木皿には銀杏、橘、 茫、瓢箪、桃などの絵柄が余程描いたらしい。絵も益子の山水土瓶のようにぎりぎりに単純化されたもので、どれひとつとっても見事な紋様である。浄法寺やその近辺の野良に出る時、やきものより軽いので木皿を無造作に背負籠に入れて持っていって、煮物やご飯を食べるのに使ったいたという。
浄法寺町の旧家に箔椀で五ヶ一組で五器、違った形の五ヶ一組を持ち伝えている家があって見せていただいたが、よく見ると上物であって特に気張って作った様子がない。この辺が浄法寺椀の良いところではないだろうか。
(株式会社里文出版)
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子供の頃から普通に使っていた漆器。
その中でも形が好きだったのが鉄鉢椀です。
江戸末期から明治の古椀が何個か残っていました。
数年前に塗りなおしたところ、意外に好評で各地の愛好家に使ってもらっています。
下地の補修が終わったら塗りなおそうかと思っています。
塗りなおしの椀を「リメイクジャパン」と勝手に名付けています。
2世紀初頭にパリで活躍した漆職人・菅原精造。
一時は浄法寺出身と言われてました。
いまでも欧米では浄法寺から来た漆職人として紹介されることもあります。
なぜ浄法寺出身とされたか謎ですね。
この書籍は、ぜひ浄法寺で読んでほしいものです。
昨夜は大きな地震がありました。
宮城県などでは被害が報告されていますが、浄法寺地方は被害はないものと思われます。
これから被害が報告されるかもしれませんが、日常の生活です。
まずは報告です。
浄法寺の「ぐい呑み」。
フランスでも大活躍です。
10年ぶりに問い合わせがありました。
エスプレッソ用の器で使っているようです。
そういえば、丸盆をパスタ用の器に使ったアメリカ人もありました。
自由な発想で漆器を使ってほしいものです。
画像はフランスの漆器愛好者からのものです。
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古い写真の整理をしています。
漆芸を教わった先生の写真が出てきました。
昭和50年代、廃れかけていた浄法寺の漆芸を守っていました。
正式に習ったわけではありませんが、良い漆を使って塗っていればいい漆器になるとの教えでした。
40年経って、言葉の意味が解ります。
現在の、きれいな全国標準の漆器には無い何かが師匠の言葉にあったような気がします。
師匠の漆器を見てほしいと思います。
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平成12年に発行された雑誌「目の眼」に秀衡椀の記事が掲載されました。知っている方の名前も出ていたので印象に残っていました。その記事を掲載して浄法寺・秀衡の参考にしたいと思います。
秀衡椀という名のおこりは「蘭学階梯子」の著者大槻磐水が書いた「秀衡椀記」(寛政4年が」最初である。
しかしこの名が広まったのは明治・大正時代の益田鈍翁、畠山一清などの数奇者がこの椀に目を止め茶会席に使うようになってからといわれている。また民芸運動の創始者柳宗悦も早くから秀衡椀ならず浄法寺の古漆器の持つ美しさに目を止めて集められ、日本民芸協会の機関誌「工藝」「民藝」で特集号を出し、日本民芸館で特別展を開くなどしてきた。それによって名が更に知れ渡り、関心を持つ人が増えてきたのである。
昭和五十六年、中尊寺坂下で秀衡塗を生業としている翁知屋の主人佐々木誠氏から「中尊寺で藤原秀衡公850年祭が行われる。その中で6月1日から一ヶ月間中尊寺で秀衡椀展が開かれるが手伝ってくれないか」と言う話があり、会の始まる前に佐々木氏と中尊寺の人と三人で秀衡椀の借り出しに歩いた。
昔、北上川の舟の関所をしていた旧家では、楓紋の秀衡椀から時代順に十組揃って絵柄の違ったものを三組持ち伝えているには驚いた。こうして秀衡椀を持っている家を殆ど歩いたが、すべての家が当代で37代といった旧家であるところから、秀衡椀は或る程度身分の高い上客の接待用として特別に注文されたものではないかと思った。また、この椀は蓋無しで三つ重ね、時代が下がると四つ重ねが出てくるが、何れも十組が一単位で絵柄が総て違う。従って例えばよく知られている柏紋の椀が一組は日本民芸館、もう一つは秀衡椀の研究家、一関市の菅原精蔵が持ち、後の八組は代々持ち伝えてきた岩手県花泉の旧家にあるのを私は「見ている。
また、日本民芸館蔵の桃の絵柄の秀衡椀一組は前からあったが、後の一組は柳宋悦がアメリカで入手したものである。この手の椀は菅原が秀衡椀をよく知らない頃十客持ち込まれたが、そんなにあっても思って五客だく買ったという。つまり日本民芸館の桃絵の椀は五組の中の二組で、あとの三組が何処にあるか解らない。読者の中でもし、一組でも図5の桃絵の秀衡をお持ちの方がいれば、その三組の中の一組である。
秀衡椀はこれだけ有名なのに関連した資料が少ないため産地が解らないが、椀の分布している範囲が、西磐井、東磐井、胆沢の三郡であり、作られたのはこの近辺であり、室町末期から桃山時代ころと言われている。
(株式会社里文出版)
https://airinjuku.web.fc2.com/joboji/joboji-hidehira/rekishi-top.html
古い秀衡椀は岩手県南地方の旧家やお寺などで所蔵されているものが多く、各地の博物館などで見ることができます。中尊寺にも桃山期の秀衡椀が所蔵されています。
旧衣川村増沢地区は、もともと漆器の産地として県内でも有数の産地で、民藝運動の創始者・柳宗悦が「塗りが正直で手堅い」と絶賛したこともあり昭和初期はとても盛んな産地でした。現在ではここで秀衡椀が造られていたという説も有りますが、確証はありません。
その増沢地区も、ダムの建設によって移住を余儀なくされました。漆器を作っていた人たちも様々な地域に分散してしまい、増沢の漆器資料はほとんど残りません。
浄法寺と秀衡の謎は深まるばかりです。
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よく間違われるのが秀衡塗と秀衡椀です。秀衡塗という名前は大正時代に当時の盛岡市長によって付けられた名前で、もともと盛岡の名産品として始まりました。秀衡椀は古くから存在していますが、秀衡椀の歴史=秀衡塗ではないのです。
古い秀衡椀は確かに現存しているのですが、その歴史を綴った古文書などはほとんど存在していません。何かの資料に、秀衡椀は元々は南部椀と言われていたとったように思いますが、定かではありません。柳宗悦氏もそのようなことを書いています。
南部の名を有つものに古くから「南部椀」があります。時にはこれを呼んで「秀衡椀」という人もあります。出典柳宗悦『手仕事の日本』(岩波文庫)
個人的には柳宗悦説が真実かとも思っています。
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岩手県を代表する漆器に浄法寺塗と秀衡塗があります。秀衡塗は菱形の金箔と模様が特徴的ですよね。平泉文化を花開かせた藤原秀衡の名が付いている由緒ある漆器です。
ただ、秀衡塗のルーツとされている「秀衡椀」という呼称は、なぜ「秀衡椀」の名がつけられたのかは分かっていないのです。浄法寺塗は瀬戸内寂聴尼で知られる天台寺がルーツであることが分かっていますが、秀衡椀は少し謎めいています。
そして秀衡塗という呼び方は、明治以降に岩手県の生産品を作ろうという機運が高まり当時の盛岡市長を中心として名付けたとされています。
中尊寺と天台寺の歴史的関係を考えれば、同じような文様の古い漆器が存在していたことは、歴史的にも何らかの繋がりがあったことを暗示していると思います。
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地元の伝承によれば、浄法寺塗の起源は天台寺の僧侶が自家製の什器を作ったことに始まるとされています。天台寺には神亀5年(728)に聖武天皇が宸筆の「天台寺」寺号を授けて開山させたという「木製黒漆塗金箔押」の寺号額が残されています。
また鎌倉期と推定される舞楽面が伝わり、長胴太鼓は元中9年(1392)に最初の修理が行われていることから鎌倉期のものであることは確実で、外装が弁柄漆で塗装されています。少なくても鎌倉期には地元の漆を使った漆器が製作されていると考えられるのです。
現在残されている「浄法寺」と思われる古漆器は、確実に室町期に遡ることができます。室町末期から江戸初期には確実に全国に知られていました。たとえば、江戸初期にも尾張徳川家で南部藩(盛岡藩)に箔椀の発注をしていることなどが記録に残っています。
南部藩は「漆」関連の産業を藩の統制品として、自由に作ることを認めなかったために加賀の輪島などのように栄えることはありませんでした。質素な飾り気のない漆器を浄法寺で作り、箔椀の箔を貼る作業は盛岡で行っていたようです。そうした中で、浄法寺の塗師たちは稚拙と表現される独特の「浄法寺漆絵」を描くようになりました。骨董の世界では「浄法寺もの」として珍重されている品々です。
10年ぐらい前に、地元の鍛冶屋さんが作った山鉈の鞘と把手に漆を塗ってみました。
2個作ったのですが、1個は速攻で江戸の道具屋さんにお買い上げいただきました。
漆独特の引き込まれるような飴色。
需要があるかどうかは分りませんが、もう一度塗ってみたい気がします。
残った1個は、実用には使っていません。
宝の持ち腐れです。
興味のある方には、実物を見ていただいた上でお譲りしたいと思います。
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聖武天皇が行基に命じて開山したと伝えられる「天台寺」が安比川中流部の浄法寺地方にあります。
寺伝によれば神亀5年(西暦728)に開山したと伝えられています。
開山した時期の伝承が東大寺造営や法華寺金堂の造営時期と重なるのも歴史に埋もれたロマンを感じさせます。
偶然か必然か今となっては証明困難ですが、必然だと思っています。
この時代の浄法寺地方は大和朝廷の影響下には置かれていません。
朝廷の権威が及ぶのは現在の宮城県北部までです。
しかし、何らかの形で仏教の影響が及び、後世の平泉藤原氏、安部一族につながる源アベ一族(アベの源・ルーツ)が、漆という武器を携えて一大勢力を誇ったとは考えられないでしょうか。
もしかしたら平泉文化の源は浄法寺の漆なのかもしれません。
奈良時代の大宝元年(西暦701)に施行された「大宝令」により、大蔵省に設けられたのが「漆部司」です。
漆部司は、長官(かみ)・判官(じょう)・主典(さかん)の職員が置かれ、その下には塗部20人、使部6人が配置されました。
大同3年(西暦808年)には、中務省の内匠寮が配下の画工司と大蔵省漆部司を併合します。
当時の職務内容は、「内」の文字から連想されるとおり朝廷の漆器需要に応じるためのものであり、十五業種の工人120人を抱えるほどでした。
これらの工人は、官営仏寺建立に伴う需要の増大や、院宮王臣家や富豪貴族層などから漆器需要に応えるためのものです。
彼らが残した奈良時代から平安時代の美術工芸品や建造物を、現在の我々は重要文化財や国宝などによって知ることができます。
その技術力の高さには目を見張るものがあります。
この時代の法華寺金堂の造営、近江の石山寺造営などに多量の漆が使われた記録が残っています。
大日本古文書には陸奥守から漆を仕入れた記録が残されています。
買い入れたのは造東大寺司であり、陸奥守は藤原仲麻呂の三男でした。
もしかしたらこれらの漆も浄法寺周辺のもの・・と考えれば、大いに歴史のロマンを感じます。
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布袋型、木製漆塗りの器です。
本来は酒器ですが、向付として使う方も多いようです。
未使用ですが展示見本品として二週間ぐらい使われていました。
普通郵便であれば送料は当方で負担します。
送料込み2000円でいかがでしょうか?。
日本酒が確実に美味くなります。
現在、古漆器展示館を準備中です。
その資金としたいと思います。ご協力いただければ幸いです。
浄法寺地域周辺では、古来より浄法寺の一地域と見られていた岩手県八幡平市(旧安代町曲田遺跡)で縄文時代後期の漆壺土器が出土しています。曲田遺跡は安比川流域で古代より同一圏域と考えられている地域です。一方、浄法寺を流れる安比川下流域の青森県八戸市では是川遺跡をはじめとして多くの遺跡から、他地域を圧倒する数の漆芸品が出土しています。これらの事実は何を物語るのでしょうか。
中世以降の資料によれば、浄法寺を含む二戸地方が隣接する九戸、三戸、鹿角などに比べて特段に漆の木の生育に適した地域であり、国内においても特別な地域であったことが立証されています。日本の北緯40度の安比川流域一帯は、悠久の昔から漆という植物によって日本の縄文文化を支えたのかもしれません。
そうすると、平泉の藤原氏が古代豪族の安部氏の血を受け継ぎ黄金文化を創った背景には、浄法寺地方の漆があったという説も現実味を帯びてくるのです。近年の調査で、安部一族の古来の本拠地は安比川流域であり、「天台寺」創建や「安比」地名の由来に関連付ける説が提唱されています。
以前は、古代中国の殷王朝(紀元前1600年頃 - 紀元前1046年)の古代遺跡から漆器の一部が発掘されていたので、漆器は古代中国文明が発祥地で、漆器の技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていました。
ところが、日本の縄文時代前期の遺跡から漆製品が見つかり、さらにDNA分析の結果、日本のウルシの木は日本固有種であることが確認され、漆器の日本起源説も主張されるなど漆器の起源については議論が続いています。我が国では、朱の漆器は縄文前期、黒の漆器は弥生期から作られていたことが各地の遺跡からの出土品によって証明されているようです。
現在、世界最古の漆は、約7000年前の古代中国揚子江河口にある河姆渡遺跡から発見された漆椀とされています。日本で最古は約6000年前、鳥浜遺跡から出土した朱塗りの櫛で今後の調査発掘が期待されます。平成12年には北海道の大船遺跡で約9000年前の地層から漆の副葬品が出土しましたが、火災により焼失してしまったようです。この副葬品に使われた漆が大陸から渡ってきたものか、日本固有種かは不明ですが、古くから日本国内で漆が使われていたのは間違いないのです。
考古学の世界でも「漆」が注目されています。石器の矢尻を木や竹の矢柄にはめ込み、はめ口を藤蔓などで縛りそこを漆をしみこませて固めたものが発見されます。。漆がしみ込んだ部分だけが腐らず、矢柄の材料を知る貴重な手がかりになっているのです。
それにしても、漆という樹液が乾燥することにより比類なき強度に達するという特性を誰が発見したのでしょうか。
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漆はウルシノキから採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料です。
ウルシノキから樹液をとることを「漆掻き」「漆を掻く」と表現します。
現在、国産漆の60%以上は岩手県二戸市浄法寺町を中心とした地域で産出されています。
他の国内産や外国産の漆に比べて、「浄法寺」の漆はウルシオールの含有率が高く品質も優れているそうです。
しかし、国産の漆の生産量はごく僅かで大半を中華人民共和国などから輸入しているのが実情です。
英語で、磁器をchinaと呼ぶのに対して漆器をjapanと呼ぶことがあります。
一般的には「ウルシラッカー」で通じるようですが、漆は欧米では日本の特産品と考えられています。
(実際は漆器をjapanとは表現しないようです)
古式浄法寺塗の最大の魅力はその絵付けにあります。施された漆絵は大らかで時として稚拙と表現されます。他の漆器産地ではあまり見ることのできない精神性の高い紋様が特徴です。
古式浄法寺紋様として描かれた漆絵は、家紋や草花文、熨斗文、鶴亀文から、大津絵や古九谷の紋様につながる暮らしの歳時記がのびのびと描かれています。
江戸期の商人たちの手により、北海道のアイヌとの交易品として使われ、アイヌ民族では「イタンキ」と呼んで神事に欠かせない器となったのも古式浄法寺紋様で描かれた漆器です。
また、アイヌたちはアムール川流域の山東人達ともイタンキを使って交易し、現在でも時々ロシアでは古式浄法寺紋様の漆器が発見されるようです。北方の民族は、驚くほど古式浄法寺紋様の漆器を大切に扱うそうで、その精神性は青森県の三内丸山遺跡などに連なる縄文文化の魂なのかもしれません。
二戸地方を知ってもらうことを目的にクイズを出したいと思います。
クイズの答えを電子メールで送ってください。
送り先は愛輪塾公式サイトのメールにお願いします。
それではクイズです。
令和3年11月に亡くなった元天台寺住職で女流作家はどなたでしょうか?
答えがお分かりの方は令和4年3月15日までにメールで答えを送ってください。
抽選で豪華?景品を贈呈予定です。
ふるってご応募ください。
https://airinjuku.web.fc2.com/
古式浄法寺塗の最大の魅力はその絵付けにあります。施された漆絵は大らかで時として稚拙と表現されます。他の漆器産地ではあまり見ることのできない精神性の高い紋様が特徴です。古式浄法寺紋様として描かれた漆絵は、家紋や草花文、熨斗文、鶴亀文から、大津絵や古九谷の紋様につながる暮らしの歳時記がのびのびと描かれています。
江戸期の商人たちの手により、北海道のアイヌとの交易品として使われ、アイヌ民族では「イタンキ」と呼んで神事に欠かせない器となったのも古式浄法寺紋様で描かれた漆器です。また、アイヌたちはアムール川流域の山東人達ともイタンキを使って交易し、現在でも時々ロシアでは古式浄法寺紋様の漆器が発見されるようです。北方の民族は、驚くほど古式浄法寺紋様の漆器を大切に扱うそうで、その精神性は青森県の三内丸山遺跡などに連なる縄文文化の魂なのかもしれません。
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