杉の丸太
薪用に提供された杉丸太。
同じようなものが楽天市場で値段がついていました。
だからというわけではありませんが、必要な方にお譲りします。
アルミ缶をちょっと大きめの袋に入れて持ってきてください。
交換します。
カセットコンロのガスボンベ3本でも交換します。
椅子や何かの台座にしてもよさそうです。
薪用に提供された杉丸太。
同じようなものが楽天市場で値段がついていました。
だからというわけではありませんが、必要な方にお譲りします。
アルミ缶をちょっと大きめの袋に入れて持ってきてください。
交換します。
カセットコンロのガスボンベ3本でも交換します。
椅子や何かの台座にしてもよさそうです。
現在の浄法寺で採用されている漆掻き技法は、明治期に越前衆が伝えたモノです。
実は江戸期以前の技法は解っていません。
文献などによれば、何となく別な方法だったようです。
日本各地には、その地域独特の技法があったことが解りますが、越前の技術が今に残るようです。
そういえば、ホタテ貝に貝殻に不自然に漆が付着したモノを見たことがあります。
画像のようにして採取した名残でしょうか?
チャイナでは画像のような技法で採取してるようです。
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ヨーロッパの有名な漆芸家アイりーン;グレイ。
彼女に漆芸を教えたとされるのがSeizo Sugawaraです。
浄法寺からやってきた漆職人と伝わっているようです。
アイリーン・グレイ女史の展覧会?か何かのリーフレットがフランスから送られてきました。
それを拡大して額装してみました。
たしかにSeizo SugawaraとJohauji (Johouji)の文字は書かれています。
実は浄法寺の出身ではなく山形の酒田地方の出身だと言うことが判明しています。
なぜ、浄法寺から来た漆職人だと言われたかに興味があります。
絶対にその理由があるはずだからです。
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ヤフオクを見ていると、ときどき昔の製品を見つけることがあります。
先日も見つけました。
作者は、現在では漆芸に関わっていません。
技法も見ていたはずなんですが、どうやったか再現できないのです。
江戸期の漆器で、現在では再現できない色合いもあります。
ヒ素など現在では使えない材料が使われていたからです。
古い器は、そういった意味で過去との対話になります。
浄法寺地方も春めいてきました。
漆の若芽ももうすぐ出てきます。
5月初旬に採取したものは、天麩羅で食べると美味です。
噂では江戸の料亭では珍味として出されているようです。
採取する際には樹液が皮膚に付かないように注意が必要です。
さて、希望者には食事会でもしながら味わっても欲しいと思っています。
希望者は連絡を!
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祖父の世代が夜食椀と呼んでいた椀です。
これを使えるのは浄法寺ででも数少なかったといっていました。
旧家の農作業の手伝いの最終日、酒と米の飯が振舞われたそうです。
その際に「こくそ煮」がこの椀で出てきて、最高のごちそうだったと聞きました。
「こくそ煮」は身欠きにしんとゴボウなどを煮込んだものです。
いまの子供には不評で、個人的には苦手でした。
ですが、還暦間近になった今は大好きな味です。
作れる人も少なくなったようです。
平凡社から出版されている工芸志料は、太古から明治初年にいたる日本工芸の歩みを,膨大な古文献を渉猟駆使して叙述する名著。
類書のない貴重な史料集として,またユニークな通史として,本書は今なお不朽の名声を保っている。
その中で浄法寺椀に関する記述。
・・・工芸志料328ページ・・・
○高倉天皇の御宇、陸奥の南部の工人漆器を製す。これを南部椀という。
・・・工芸志料332ページ・・・
○天正年間、此の際陸奥の会津の工人、或いは南部椀模擬し或いは新意を出して多く漆器を製す。これを会津塗という。
以下は管理人の雑感です。
高倉天皇は応保元年9月3日(1161年) - 治承5年1月14日(1181年)は、平安時代末期の第80代天皇。
在位:仁安3年2月19日(1168年) - 治承4年2月21日(1180年)です。
この時代は平泉文化の末期と重なり、この頃の陸奥の南部の工人とは、どの地域の工人かは悩むところです。
ここでいう南部とは、南部氏の事だと思うので未だ陸奥の北部には勢力を持っていません。
天正年間に、九戸城攻略の責任者は蒲生氏郷であり、一説には九戸攻略後に漆工職人を会津に連れ帰ったとあります。
江戸期以降、浄法寺と会津の漆工はお互いに品物や漆を融通したと思われる資料も残っています。
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平凡社から出版されている工芸志料は、太古から明治初年にいたる日本工芸の歩みを,膨大な古文献を渉猟駆使して叙述する名著。
類書のない貴重な史料集として,またユニークな通史として,本書は今なお不朽の名声を保っている。
その中で浄法寺椀(南部塗(はどのように書かれているのか?
・・・工芸志料360ページ・・・
南部塗
南部塗は陸奥国の南部の地に於いて製する所の者なり、世人これを称して南部塗という。赤塗の者多し(六七百年前に造る所の南部塗の漆器今尚お存す。或いは云う。高倉天皇の御宇陸奥守藤原秀衡、工人に命じて創めて製せしむる所の者なり。故に後世此の器を称して秀衡椀と云うと)。
南部椀と称するものは、内は朱色にして外は黒色なり。又黒漆の上に朱漆(又青漆、黄漆をも用いたり)を以て或いは鶴或いは花卉を描き、処々にに方切したる金箔を付着し、其の朱色煒燁なり。点茶家以て飯器と為す。最も雅致あり。
染戸其の花章を模倣して布帛を染むれば、之を称して南部模様というに至る。その愛玩せしこと以て知る可し。
又正法寺椀と云うあり。江刺郡の正法寺に於いて製せし所の者なり。或いは云く、正平年間僧無底という者あり。陸奥国江刺郡黒石寺において一寺を創建す、号して正法寺と云う。又黒石精舎という。正法寺は禅宗にして越前国永平寺、能登国総持寺と共に一派の総本寺たり、故に諸国の僧徒来聚するもの夥多なるを以て、正法寺に於いて使用する所の食器の椀も亦其の数多くしてしかるべからず。故にこれを造ること甚だ多かりなるべし。其の造る所の椀に類似せる者四方に伝播くせしより、世人これを正法寺椀と称するに至りしならんと。
又云く、南部椀は陸奥の九戸郡(二戸郡の間違い)浄法寺村より出づ、同郡畑村にて椀を作り田山村にて漆を塗る。此の地皆南部氏管たりしを以て故に南部椀と称せり。而れども南部にては浄法寺椀といい、他の地にては南部椀という。
後世に至りては江刺郡の正法寺に於いて漆器を製出せず、而して浄法寺村に於いて漆器を製す。亦南部椀という。其の他の工人巧みを伝えて今に至る。
秀衡椀と称される物で平安鎌倉期に属する物は現存しない。後世のこの名称からいわゆる秀衡椀系の物の時代を古く考えるようになったのではなかろうか。秀衡椀、正法寺椀、浄法寺椀はそれぞれ系統を異にする所があるようであるが、それぞれの歴史はあまり明瞭でない。
(続く)
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一昨日、岩手県二戸市浄法寺町でロケが行われていた~いわて漆紀行うるしびとが紡ぐ伝統~が放送されました。
録画を忘れてしまったのが残念ですが、漆を語るには浄法寺を語らなければいけません
何とかして「浄法寺の漆」で多くの人が生きていけたらいいと思います。
浄法寺の漆をよろしくお願いします。
2世紀初頭にパリで活躍した漆職人・菅原精造。
一時は浄法寺出身と言われてました。
いまでも欧米では浄法寺から来た漆職人として紹介されることもあります。
なぜ浄法寺出身とされたか謎ですね。
この書籍は、ぜひ浄法寺で読んでほしいものです。
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