二戸地方

2019年10月18日 (金)

似鳥小学校跡

自転車で走っているとちょっとした歴史遺産に出会います。

先日は似鳥小学校跡地を見つけました。

かつては学童数も多かった名残です。

数年後には、地区の小学校も統合で姿を消しそうです。

そんなことを思いながら遺産を散策しました。

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2019年10月16日 (水)

福田舘

自宅から自転車で7kmぐらいに福田舘があります。

じっくり見たことは無かったのですが、今回は高清水神社方面から行ってみました。

はっきり言って、あの坂道は無理。

自転車を置いて登るのもキツかったです。

来年の目標を、この坂道を自転車で登る事です。

城跡としても、じっくり調べると面白そうです。

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2019年10月 5日 (土)

クイズの答え

 復活ウルトラクイズに8名の方から応募いただきました。ありがとうございました。正解者は5名で、不正解の3名の方は「吉田松陰」との答えでした。質問の仕方が悪かったかもしれません。

 それでは正解です。答えは「木戸孝允」です。桂小五郎でも正解としました。明治9年に明治天皇の随行として二戸地方を訪れました。その際に旧知の間柄であった小保内定身を訪ねています。

 正解者の中から、埼玉のYNさんに漆塗りの箸を景品として進呈させていただきます。おめでとうございました。

https://airinjuku.jp/quiz/quiz001.html

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2019年10月 4日 (金)

呑香稲荷

  海道南茅部の方から呑香稲荷について問い合わせがありました。南茅部は市町村合併で、今は函館市の一部となっていますが、延宝7年(1679)に与五右衛門という人物が、陸奥国福岡の呑香稲荷より分霊して尾札部稲荷を分霊したそうです。


 福岡の呑香稲荷ではそのあたりの経緯がわかるでしょうかという内容でしたが、二戸市史などを調べても詳細は分かりませんでした。呑香稲荷社の連絡先をお知らせして、その問い合わせには答えることができませんでした。


 さて呑香稲荷の歴史を調べると、延暦20年(801年)に出羽国(現在の山形県)の大物忌神社(おおものいみじんじゃ)を勧請し浄法寺村稲庭嶽に祀ったのが始まりと言われています。貞元親王(清和天皇の第三皇子)の孫にあたる源重之の母親が託宣により宮野の里に遷座し稲荷大神と称えていましたが、九戸政実と豊臣軍の戦いがあり、


 戦乱を避けていったん津軽に遷座しました。九戸落城により、別城である松の丸を修理増築して二十六代南部信直公が移られ宮野は福岡と改められ、稲荷大神は二戸郡漆沢村に御遷幸となりました。 二十七代利直公の時、秋田城之介の家臣であった小保内源左衛門が主家没落のため今の盛岡市仙北町で南部家に仕えていましたが、もともとの南部家臣たちから後ろ指をされるのに憤慨し北に向かいました。二戸郡漆沢村に至った際、その夜に霊夢がありました。


 稲荷大神より宮野の地に祭るよう信託をうけた源左衛門は、翌朝福岡城下に赴き、一祠を建立しました。そして、天和2年(1682年)、2月3日の夜に遷座となりました。天和3年(1683年)に呑香稲荷大明神の神号を受けています。 南部藩の治世を通じて南部領内奥中山以北の神社は、呑香稲荷の管理下にあったと言います。そういった予備知識を持って、尾札部稲荷の縁起を調べれば面白そうです。


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2019年9月19日 (木)

明治10年に田子で起こった大事件

明治10年2月に西郷隆盛を中心として起こった反政府運動が、いわゆる西南戦争です。

これに呼応して、明治10年5月に青森県三戸郡、岩手県二戸郡、秋田県鹿角郡の旧南部藩士たちも政府転覆計画を起こします。

これは三戸郡田子町の真田大古(泰幸、太古)を首謀者とする怪事件でした。

続 き

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2019年9月 6日 (金)

うろこ滝

徒歩10分ぐらいにある「うろこ滝」に散歩しました。

じっくり見たことは無かったんですが、改めてみるとなかなかいい場所です。

滝壺では魚影が見えました。

ここで魚を釣ってはいけないといわれたことがあります。

一年後輩が、ここで魚を釣った翌日に交通事故。

偶然でしょうが、当時は「うろこ滝の祟り」と噂したものでした。

紅葉の時期に再び行ってみます。

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2019年9月 5日 (木)

姉帯製菓

かりんとうが食べたくなり散歩を兼ねてい行ってきました。

本当に丁度良い甘さです。

思ったより、量を食べてしましたす。

カロリーが心配ですが、思わず食べてしまします。

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2019年9月 3日 (火)

鳥居があった

今はありませんが、天台寺入り口に大きな鳥居があった記憶があります。

当時の写真を探していますが見つかりません。

中学生のころにはすでに無くなっていました。

もしかしたら、国体か何かの道路拡張で取り壊されたのでしょうか。

可能であれば復活してほしいものです。

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2019年8月28日 (水)

相馬大作

 講談などで知られる相馬大作事件。その主人公である相馬大作は、本名は下斗米将真です。「しもとまい・まさざね」と読みます。下斗米氏は本姓は平氏で、平将門の子孫である相馬師胤の末裔と伝わっています。
相馬師胤の8世の子孫である光胤の4男胤茂の子胤成が正平年間、南部氏につかえて南部氏の藩士となり、二戸郡の下斗米に住んだと伝わります。下斗米というのは、今の岩手県二戸市の中心地から数キロ西北にある地域ですが、ここに住みつき郷名を取って下斗米氏を名乗るようになったと思われます。伝説では下斗米を中心として、一日で回れる範囲を南部氏から与えられたと言います。その範囲は二戸市の下斗米から上斗米地域と重なります。

 胤成から数代を経て下斗米常高に至ります。下斗米宗兵衛常高(寛政六年1794年死去)は、蝋漆を扱う平野屋を興し一代で豪商となり、さらに安永年間数度の献金により二百石となります。常高の子が将真の父総兵衛です。
相馬大作こと下斗米将真は、陸奥国二戸郡福岡の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれました。将真は子供のころから活発な子供であったが、父母は病弱な兄に代わって将真に家督を継がせようとしますが、「家督は兄が継ぐべき」との思いから脱藩して江戸にでます。文化3年(1806年)のことです。に江戸に上った。江戸では実家の商売上のつきあいがあった日本橋室町ノ美濃屋に世話になった後、美濃屋の紹介で御徒士頭の夏目長右エ門に入門することにしました。
一年ほどで夏目が文化露寇への対応で仙台藩兵と共に択捉島に派遣を命じられると、次に平山行蔵に入門します。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになったのでした。

 そんな時に父が病気と聞いて帰郷し、文政元年(1818)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣を開設し近隣の若者を指導しました。実家の道場が狭くなってきたので、十月に近郷の金田一に移転します。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれています。

 その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わます。二戸市歴史民俗資料館には、遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されています。。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていましたが、将真も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたといいます。実際に蝦夷地にも足を延ばし、北方警備の重要性を痛感しました。この思想は、師匠の平山行蔵の影響が大きいと思われます。

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2019年8月27日 (火)

国内最大の被害は天台寺

奈良時代に天皇の勅命を受けた僧、行基(ぎょうき)が開山。
平安時代には寺が整い、参道下の桂(かつら)の大木から湧く清水を霊水と崇め、
古代における国内最北の仏教文化へ発展したと考えられている天台寺。

14世紀には東北で勢力を拡大していた南部氏の保護を受け発展、
17世紀、江戸時代には寺の再興、大修理を行い、27の末社を有する大寺院として隆盛を誇った。

しかし、明治初期の仏教排斥運動「廃仏毀釈」により寺は激しく衰退。
広大な土地は境内周囲のみを残し取り上げられ、文化財の破壊など、廃仏毀釈による国内最大の被害を被ったといわれている。

今東光大僧正も、瀬戸内寂聴尼も惚れた「薬師如来坐像」。
平安末期の丈六仏であり貴重な文化遺産。
なんとも言えない不思議な仏像。

廃仏毀釈による最大の被害を受けた寺院だということを覚えてください。

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