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二戸地方

2018年12月13日 (木)

浄法寺氏を考える

浄法寺氏について興味深いサイトを見つけました。


http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/johouji1.htm


室町~戦国期の陸奥の大族浄法寺氏は、二戸郡浄法寺郷に居り岩手県北部の安比川流域(現二戸市浄法寺町一帯)を押さえ、一族に松岡、田山、寺田などの諸氏を出したが、その出自については、畠山次郎重忠の後裔と伝える(『奥南旧指録』)。

この解釈として、重忠の末子、大夫阿闍梨重慶の遺児(太郎重基?)が陸奥国二戸郡に逃れて在地の土豪となり、室町時代前期の応永中に、南部守行に属したとされる。しかし、阿闍梨重慶の遺児説には大きな疑問があり、むしろ重忠弟の六郎重宗の後裔かと疑う説(『郷村記』)もあるなど、これまで諸伝が見える。
 
そこで、資料に基づいて考え直してみると、苗字の地たる浄法寺が上野国緑野郡にもあること(藤岡市浄法寺。旧緑野郡鬼石町)に留意される。

それが、緑野郡高山御厨(藤岡市南部の鮎川一帯)に起った秩父同族の高山党の勢力圏にあって、高山(藤岡市高山)と山地を挟んで南隣に位置し、神流川の中流西岸にある平地である。

畠山重忠の大叔父で高山党の祖となる高山三郎重遠は、秩父権守重綱の子、太郎大夫重広(重忠の祖父)の弟であり、その子・栗須四郎有重は栗須(藤岡市の上・中・下の栗須一帯。高山から東北方)に住み、その子には小林次郎重兼、小林三郎重清の兄弟がいた。

兄弟は、栗須から南方近隣の神流川下流部北岸にある同郡小林郷(藤岡市小林)へ移って小林を号し、重清の子の三郎二郎重保が神流川を遡って西南方に進んで浄法寺に住み、浄法寺氏の祖となった。

こうした動きは、和歌山県那智勝浦町の那智大社の文書(『熊野那智大社文書』)にある「小林系図」から分かることである。

この系図は、『新編埼玉県史』別編4(年表・系図)にも所収となっており、それに拠ると、重保の子の「重行(弥二郎、法名行蓮)-重員(弥三郎、法名行心)-重直(小二郎、法名行妙)-景重(弥二郎)-季重(弥三郎)」と嫡系が続いており、これが実系であるとすると、景重が建武頃、その子の季重が応永頃に活動したことになり、奥州浄法寺へ移り住んだのはこの親子か近親一族であって、その末裔が陸奥の浄法寺氏だろうとみられる。


http://www.airinjuku.com/


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2018年12月12日 (水)

「のへりん」

金田一温泉駅前にある藤萬菓子店。

「のへりん」という不思議な名前のお菓子があります。

由来は「にのへのりんご」からのようです。

りんごの形で可愛らしいですよね。

米粉の皮で包まれているのはりんご餡で、食べてみると、和菓子のような洋菓子のような不思議な食感。

甘酸っぱいりんご餡が美味しいんですよ。

金田一温泉をよろしく!

https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005

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2018年12月10日 (月)

宿坊復活願う

浄法寺漆器に重大な位置を占めると思われる天台寺。

その入り口とも言うべきなのが桂清水。

昭和40年代の荒れ放題だった姿を知っています。

その時から見れば、一見すると復興しているように見えます。

しかし、信仰まで復活したかどうかは疑問です。

宿坊が復活すれば面白いですね。

https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005

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2018年11月28日 (水)

爺ちゃんから聞いた話

秋から初冬にかけて集められた漆の実は、果肉と種子に分けられる。蠟分が含まれるのは果肉の部分である。これをさらに搗いて粉状にして蒸す。

蒸し上がったら蝋袋に詰める。蝋袋は竹で編んだ籠状のものである。二戸地方では竹製の籠だが、会津地方では麻袋がつかわれた。

約四〇センチ角に長さ約三メートルの胴木が蝋締めの中心になる道具である。中央部に長方形の穴が開いている。この穴の上に蝋袋を置き、安定させるために蝋袋の両側にコマを配し挟む。さらにコマの外側にヤ(クサビともいう)を差し込む。胴木の両端に若者が立ち、重さ二〇キロもある木槌を振り上げてこのヤを打ち込むと、その圧力により蝋袋の漆の実の粉から蝋が絞り出される。胴木の下に箱を置いてこれを受け、しばらくすると箱の中で蝋は冷え固まりとなる。

現在、岩手県北で実際に蝋燭を作っていたという明確な証拠は残っていない。蝋燭そのものは浄法寺町の旧家から見つかったものが浄法寺町立歴史民俗資料館に展示されている。二戸市の黒沢家には「御用御蝋燭屋 伊勢屋助右エ門」という看板が残る。また、一戸町には蝋燭屋という屋号の戸田家がある。ここには蝋燭作りの道具が数点残っていたから、蝋燭屋は販売よりも蝋燭製造から出た屋号でると思われる。

戸田家の蝋燭販売圏は岩手県北から青森県南だったという。これ以外には今のところ、道具の一部を伝えている家が数軒あるのみである。この地方で蝋燭作りはそれ程盛んに行われていたような形跡がない。

一戸町の田村家に嘉永二(一八四九)年に盛岡藩が出した胴木の鑑札が残っている。蝋燭作りはあまり盛んではなかったが、蝋締めは盛んだったと思われる。蝋燭に加工して売り出すのではなく、蝋を固まりを出荷したのであった。

https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005

2018年11月19日 (月)

漆蠟 その2

江戸期の盛岡藩内では漆蝋が生産され、藩にとっても貴重な産物の一つであったことはよくわかる。

しかし、集めた漆の実をどこで、どのように絞って蝋を作り、これを原料にして何を、どれくらい作ったのかなどはまだ解明されていないことも多い。

史料には、盛岡城下に住んでいた藩お抱え蝋燭師の名前も記録に残っている。

おそらく漆蝋を原料に蝋燭が作られ、城内や武家屋敷での照明として用いられたと思われる。

このほかに祭礼や祈願などの際、藩内の主な社寺への奉納物としても蝋燭は珍重されていた。

明治10(1877)年に来日し、大森貝塚の発見者としても有名なアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、日本滞在中に各地を旅行しその記録を『日本その日その日』(平凡社、東洋文庫)として残した。

彼は明治11(1878)年8月20日頃に現在の二戸市福岡を通過するが、そのときの印象を次のように書きしるしている。

一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人々は、ヌルデの一種の種子から取得する、植物蝋をつくりつつあった。この蝋で日本人は蝋燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。

(中略)

ここ北日本でも同国の他の地方と同じように、この蝋をつくる。先ず種子を集め、反槌で粉末にし、それを竈に入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔を入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蝋をしぼり出す。すると蝋は穴の下の桶に流れこむこと、

岩手県北地方での本格的な漆蝋生産は大正末期までだったらしい。

水力発電所ができて新しい照明の時代になったこと、西洋ローソクの普及が衰退の理由である。

江戸期の浄法寺では、この和蝋燭の炎で漆器に文様を付ける技法があった。この技法は、西洋蝋燭だと上手くいかないらしい。

蛇足ではあるが、エドワード・S・モースが日本滞在中に住んでいた家の数件隣に、若き日の田中舘愛橘が住んでいた。

もしかしたら、エドワード・S・モースの東北旅行も、愛橘博士の影響があったのかもしれない。

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2018年11月17日 (土)

義憤の大作 時の傑

徳川幕府の末期になると北辺事情が急を告げます。
ロシア人が開国を求めて蝦夷地にやってきたのです。
文化4年(1807)には、幕府はエゾ地を全部直割として南部津軽両藩に警備を命じます。
その後ロシア人が再び来襲して、容易ではない事態に発展しました。
幕府は秋田・庄内藩からも出兵させ、続いて仙台藩にも加勢を命じ、奥州の諸藩が出動することになって泰平二百年の夢は破られたのでした。

幕府の対応は困惑そのものでした。
切迫した外国との接触、幕府の乏しい実力を目の前に、日本人の胸に国家という意識が湧き始め、学問として研究されていた国学や皇学も、このような事態に直面して国家意識を目覚めさせる重要な要素となりました。

そんな時代背景の中で、カシオペアの大地に現れたのが下斗米将真です。
彼は、江戸に出て平山行蔵に入門。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。
平山行蔵は、江戸時代後期の幕臣で兵法家。剣術流派として講武実用流を称した。間宮林蔵、近藤重蔵とともに「文政の三蔵」と呼ばれる人物です。

将真は、父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設します。
同塾では武家や町人の子弟の教育にあたりました。
同年10月に同塾は近郷の金田一に移転します。
兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、演武場、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていました。
門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたそうです。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じました。

当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていましたが、
将真も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたと伝えられています。この思想は、師匠の平山行蔵の影響と考えられます。

将真が「相馬大作事件」で福岡を去った後、門弟たちで彼の精神が受け継がれます。その中心人物が田中舘彦右衛門でした。

相馬大作は書き残したい人物です。

人生の締めくくりとして執筆に入ります。

何年かかるんでしょうかね。今では電子書籍での出版と言う方法もあります。

がんばります。

Kikou271


2018年11月 9日 (金)

漆蝋の歴史 その1

岩手県北部は国産漆の産地として知られている。現在でも国産漆の大半を産出する地域である。

漆の産出が多いということは、当然ながら漆の木が多いということでもある。

明治以降は、越前地方からから出稼ぎに来た漆掻き職人が「殺し掻き」という新しい技法をもたらした。

それ以前は「養生掻き」という掻き方をしており、漆液は数年に一度の割りで少しずつ採取する方法が主流であった。

それは漆の実をたくさん採るためで、漆蝋の原料確保のためであった。

江戸期には、今の岩手県から青森県東部にかけては盛岡藩の領地であった。

その家老日誌である『雑書』(盛岡市中央公民館刊行中)によると、藩には複数の「漆掻奉行」が置かれ、秋になると担当地域内から漆液と漆の実を集めたことが記されている。

正保二(1645)年に盛岡藩が秋田藩との境にある沢内通の番所へ出した命令である「沢内通御留物之事」では、「蝋漆あぶら/箔椀・同木地」などを他藩へ勝手に持ち出すことを禁じ、違反者を捕まえたなら褒美を出すとしている。

同じような命令は、それ以後も各地の番所にも出さ、「蝋」が除外されることはなかった。

正保三(1646)年には「一戸蝋懸藤兵衛」という記録が残っている。

蝋燭を作ることを蝋懸(掛)というので、一七世紀半ばには一戸でこれを職業としていた人物がいたことがわかる。

盛岡藩の「御領分物産取調書」によれば、福岡通について「蝋 惣村より出/漆 惣村より出/蝋燭 福岡町一戸町」とあって、蝋と漆は二戸地方全域で、蝋燭は福岡町と一戸町で生産されていたことが記録に残っている。

続 く

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2018年10月 9日 (火)

鶏軟骨

胸軟骨・・・「やげん」と呼ばれる。
膝軟骨・・・「げんこつ」と呼ばれる。

それぞれ、どちらも美味しいですね。

通によると、焼き方が違うと教えられました。


「げんこつ」はしっかり焼く必要があり、「やげん」は逆に火を通しすぎると固く黄色くなってしまいます。

二戸地方は食鳥産業が盛んです。
焼き鳥で一杯を合い言葉に地域を盛り上げたいですね。

「あべどり」セットもお勧めです。


http://airinjuku.blog.fc2.com/

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2018年9月 9日 (日)

南部枡

10年ぐらい前にインターネットで見つけた記事を残していました。

ネタ元のURLは、残念ながら失念してしまいました。

メモによると、盛岡藩は江戸時代には全国の半分以上を漆を生産したそうです。

生産の半分は運上金として藩に納めさせ、後の半分を物産問屋の下で、荷造樽を馬や引き舟、河川船、渡海船などの流通ルートに乗せ、江戸や大坂などに送ったとあります。

これらの過程で、江戸着の目方が7%減ったとの問屋からの申し出があり、独特な計量管理の跡も残ります。

揆籌という独特の枡があったとも言われ、盛岡藩(八戸・七戸藩含む)で使用された南部枡の規格を表す文書に記録されています。

一合二勺五才は、方形三寸二分、深さ 一寸

二合五勺は、方形三寸七分、深さ一寸五分

揆籌規格の枡は、今のところ現物は見つかっていませんが、明治生まれの古老達は、普通よりも大きい升があったことを語っています。

平べったくて、容量も普通より約27%も多く入り、幕府容認の盛岡藩特有の枡であったようです。

漆は取引の段階では重量(目方)だが、藩の運上金納入記録は盃(杯)が使われてたようです。

霊前などに供える「一杯めし」は二合五勺で、山盛一杯の意味が含まれると言われます。

「一杯めし」を普通の枡で精米を計ってみると、約25~6%多くなり、揆籌規格の枡が基準になっていたかもしれません。

「盃」は、藩の取り決めで、次のように使用細目を決めていました。

「生漆」計量の場合、

(1)一盃の目方三二〇匁

(2)百盃の目方三二貫

(3)一駄 百盃入れ一つ

(4)一盃の値段九百文


「精製漆」計量の場合

(1)一盃の目方百六・七匁

(2)百盃の目方一〇貫六六七匁

(3)三百盃の目方三二貫

(4)一駄 百盃入れ三つ

これらから見ると、精製漆の比重は、三分の一になります。

南部枡の始まりは以下のように書かれています。


 南部大膳太夫領内通用舛、寛文八年五月津留書上之節、岡田豊前守

 様え御届申上候通、京舛通用仕候、尤、従京都差下候舛にては、領

 内手廣に付、末々迄行届兼、往古より舛方役人并職人共迄申付置、

 京舛本形に仕、入目相改仕足舛申付来候、以前之儀は相知不申候得

 共、天正年中より慶長初迄、越前国新保罷有候久末長右衛門と申者

 え、京都・大坂用事頼候付、京舛為相調差下候得共、前書に申上候

 通、手廣にて領内中行渡兼、右舛本形に仕、仕足舛申付用ひ来候得

 共、東照宮御治威己来御当地舛を本形に仕、当時共舛方役人共え為

 遂吟味、仕足舛申付儀、寛文八年津留等書上候己後、同年七月故大

 膳太夫重信参勤仕候節、前書之通往古より仕足舛申付来候趣、御面

 談御届申上候之処、御聞届被置候、舛恰好之儀は、往古より仕来之

 通、只今共に不相替申付置候、入目之儀は、本形舛之通相違無御座

 候、舛恰好并焼印共に、絵図之通御座候、以上、

   安永五年九月    



漆に関しては、現在の精製業者から聞くと、感覚的なものだが江戸時代の文献に間違いないそうです。

南部枡の始まりは以下のように書かれています。

南部枡の実物を見てみたいです。

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2018年8月26日 (日)

天台寺

天台寺。

宗派そのものを名乗る寺院は珍しい。

他にはあるのだろうか。

天台寺は岩手県二戸市浄法寺町にある。

平成18年の市町合併前は岩手県二戸郡浄法寺町であった。

旧鹿角街道、県道6号から安比川を渡り山道を登ること5分で桂の大木と冷たい清水に到る。

霊山と呼ぶにふさわしい雰囲気が漂う。

ここから先の参道を登る。

急坂の参道は仁王門に向かってまっすぐに伸びている。

昭和20年代までは「参道の両側に直径2メートル前後の杉の大木が立ち並び、昼でも電灯がほしいと思った」と古老は語るのであった。

昭和28年から行われた「霊木伐採事件」により往事の面影は失われたが、昭和50年頃からの復興運動により少しずつではあるがかつての偉容を取り戻しつつある。

昭和45年に天台寺を訪れた北海道宗教古美術研究会代表の森川不覚氏は、機関誌に荒れた様子を投稿している。

「無残な寺の姿に腰が抜けそうになった。切株の年輪を数えたら比叡山や高野山と同じ年輪の杉の大木あったとわかり、残念さがこみ上げ、伐採した心ない人への怒りを覚えた」

仁王門の左右に立つ仁王像も痛々しい。

鼻や指が欠け、胸と膝には激しい斧の刃跡。腕と足首は鎹で接ぎ合わさっている。

明治3年12月に青森県の官吏が廃仏毀釈政策を実行した際の破壊の痕跡だ。
この時期に大部分の仏像は破壊されたと伝わる。

この当時、二戸地域は青森県に属し岩手県への編入は明治9年まで待たねばならない。

この仁王像は運慶作と伝えられる。

その真意はともかく、こうした文化財が失われなければならなかったことが残念である。

仁王は病気を治すと信じられ、患部と同じところに白い紙が貼られている。

長年続く庶民信仰である。
 
仁王門を抜けると本堂にたどり着く。

「本堂を中心に寺はうっそうと茂る杉はやしの中にあり、昼でも本堂は日光を遮られてぼんやりとしか見えなかった」とかつての威容を知る人々は語るのであった。

天台寺には長慶天皇に関する伝承も残されている。

古くから「おやまさかり」として親しまれてきた天台寺のお祭りは、桜が満開の5月に春の大祭が、稲刈りが終わる10月に秋の大祭が行われます。

例大祭の呼び物の「神輿渡御」は長慶天皇の葬列を模したものといわれ、三角の紙を頭に着けた男たちの神輿行列が歩く。

独特の厳かな雰囲気が漂うこの葬列は、吉野を追われ海路みちのくへ逃れ天台寺で没した南朝時代の3代長慶天皇の法要と伝わる。

にぎやかなかけ声もなく、静かな太鼓の音とともに境内を三度回りものである。

仏像マニアにも知られているようだ。

木造十一面観音立像、木造聖観音立像(桂泉観世音) -像表面の大部分に規則的なノミ痕を残して荒彫り風に仕上げた、いわゆる「鉈彫」の典型的作品で、平安時代、11世紀頃の作と推定される。

知り合いの仏像マニアに言わせると、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺と毛越寺、山寺こと立石寺、そしてこの天台寺が東北の名刹だそうだ。

しかし、天台寺の知名度は低いのだ。

境内で骨董品でも商いながら、お茶や蕎麦を提供しながら、天台寺研究ができたら面白いだろうな。

https://youtu.be/5QbPi9_Y3EQ

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