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九戸古城主君みずや

2018年9月 4日 (火)

九戸政実の客将大里修理親基

九戸政実の客将大里修理親基は、武蔵七党丹党安保実光の子孫と言われている。

武蔵七党とは、畠山重忠にも縁があったはずで、鹿角にも近い浄法寺とも深い繋がりがありそうだ。

大里修理親里を祖とする鹿角安保氏の惣領である。

陸奥国鹿角郡大里村(現 秋田県鹿角市八幡平)の在名により氏とした。

鎌倉期に郡内地頭職に任命され、鹿角安保氏の惣領は大里村を領した大里上総、次男が花輪村を領した花輪次郎、三男が柴内村を領した柴内弥次郎と言われる。

彼らは「安保三人衆」とも呼ばれた。

安保氏が成田氏と同族関係にあって、安保氏が成田氏を名乗り、南北朝期には大里に拠った成田小二郎左衛門尉頼時と六郎奉時が南朝方であり、北畠顕家の下で頼時は鹿角の国代に任ぜられた。

建武4年(1337年)津軽の曾我貞光が足利尊氏に呼応して戦端を開くと、成田奉次は南部師行らとともにこれを破った。

永禄元年(1558年)鹿角侵入を図った檜山の安東愛季に一族の応じ、大里備中が呼応して長牛城を攻撃したために、鹿角は一時安東方の占有するとこになった。

しかし、同11年(1569年)、南部信直の出陣によって秋田勢は敗れ鹿角から撤退した。

その後、大里氏は旧領を回復し、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあったと思われる。

大里修理親基は、三戸の信直と終始反目し、天正19年(1591年)、九戸政実の乱において同郷の大湯四郎左衛門昌次と共に九戸氏側に加わった。

戦いでは中心的役割を果たしたとして九戸城降伏の際、政実ら主だった首謀者達として集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。


https://youtu.be/RsuK8x1iZjw

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2018年8月25日 (土)

櫛引河内守清長

九戸政実と九戸城に籠もった櫛引河内守清長と弟左馬助清政は櫛引城の城主でした。

櫛引城の築城年間は不明。

櫛引氏は初め根城南部氏に仕えていたが、三戸南部氏13代守行の頃には三戸南部氏を主と仰いでいた。

永禄十年(1567年)、櫛引氏が八戸政栄の留守中にその所領を侵略し、近隣に放火したため、元亀二年(1571年)、八戸氏の軍勢によって櫛引城は攻撃を受けた。

東政勝が櫛引氏を支援したものの、櫛引勢は降伏した。

櫛引氏の本拠地には、南部一宮と言われる櫛引八幡宮がある。

櫛引八幡宮の前名は、四戸八幡と称していた記録がある委。

三戸南部家24代晴政書状によれば、櫛引氏が剣吉に出動することを「四戸殿は戸内に馬を出す」などと書いている。

九戸と同じく、晴政派の武将だったのだ。

と言うことは、三戸と五戸の中間に位置する浅水(五戸町)、剣吉・名久井(名川町)、苫米地、さらに東に伸びて櫛引・中野・島守・大森を含む、馬淵川下流域と浅水川流域は、四戸であったと想像される。

櫛引氏は、四戸氏の有力は一族であったのでしょう。

四戸一族からは、櫛引、中野、武田、金田一、足沢などの諸氏が出ました。

このなかでは櫛引氏が優勢で、南部信直方の八戸南部氏に対抗したと伝わります。

天正十九年(1591年)に起きた九戸政実の乱に際し、当主櫛引河内守清長と弟左馬助清政は九戸政実方に加担した。

浅水城・苫米地城・根城・是川館の諸城館を攻撃したあとに九戸城に入城するが、羽柴秀吉の率いる奥州再仕置軍との戦いで、櫛引清長は戦死した。

櫛引清政は九戸政実と共に降伏し、三迫松尾村(栗原市)で斬首されて櫛引氏は滅亡した。櫛引城もまた根城南部氏の攻撃を受けて敗れ去った。

天正二十年(1592年)の「諸城破却書上」には、「櫛引 平城 破 代官 桜庭 将監」とあり破却された。

https://youtu.be/R_GVVb8fIzc




2018年8月21日 (火)

九戸政実の客将大里修理親基

九戸政実の客将大里修理親基は、武蔵七党丹党安保実光の子孫と言われている。

武蔵七党とは、畠山重忠にも縁があったはずで、鹿角にも近い浄法寺とも深い繋がりがありそうだ。

大里修理親里を祖とする鹿角安保氏の惣領である。

陸奥国鹿角郡大里村(現 秋田県鹿角市八幡平)の在名により氏とした。

鎌倉期に郡内地頭職に任命され、鹿角安保氏の惣領は大里村を領した大里上総、次男が花輪村を領した花輪次郎、三男が柴内村を領した柴内弥次郎と言われる。

彼らは「安保三人衆」とも呼ばれた。

安保氏が成田氏と同族関係にあって、安保氏が成田氏を名乗り、南北朝期には大里に拠った成田小二郎左衛門尉頼時と六郎奉時が南朝方であり、北畠顕家の下で頼時は鹿角の国代に任ぜられた。

建武4年(1337年)津軽の曾我貞光が足利尊氏に呼応して戦端を開くと、成田奉次は南部師行らとともにこれを破った。

永禄元年(1558年)鹿角侵入を図った檜山の安東愛季に一族の応じ、大里備中が呼応して長牛城を攻撃したために、鹿角は一時安東方の占有するとこになった。

しかし、同11年(1569年)、南部信直の出陣によって秋田勢は敗れ鹿角から撤退した。

その後、大里氏は旧領を回復し、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあったと思われる。

大里修理親基は、三戸の信直と終始反目し、天正19年(1591年)、九戸政実の乱において同郷の大湯四郎左衛門昌次と共に九戸氏側に加わった。

戦いでは中心的役割を果たしたとして九戸城降伏の際、政実ら主だった首謀者達として集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。

https://youtu.be/VrxfQJSVPgk

2018年7月31日 (火)

九戸政実の年齢 

九戸政実の決起は、天正19年(1591)に起きた争乱である。

南部家の第25代晴継が没した後、南部家を誰が相続するかで争い、最後は南部信直が相続した。

それに異を唱えたのが九戸政実であった。

九戸実親(政実の弟)を推していた九戸党が、信直の相続を不服として南部家に対して反旗を翻し、最終的には信直を支援する豊臣政権の軍勢が九戸城を攻略し、降伏した政実以下を斬首して解決したということが通説になっている。

九戸政実が九戸城に籠もって豊臣勢と戦ったのは、間違いない史実だが、そのときの当主が「政実」であったかどうかは、実は確実な証拠がないのである。

亡くなった年齢の辻褄が合わないのある。

「政実の名」は、天文7年(1538)の日付で九戸神社に伝わる建立時の棟札で確認できる。

実は、その札のみなのである。

その札には、「大旦那源政実」と記されている。

「大旦那源政実」とは、源氏の血を引く政実という意味であるが、政実は56才で処刑されたと伝わっている。

そうすると、天文7年(1538)は3才ということになり、果たして「大旦那源政実」と名乗り、神社を建立したとは考えにくい。

棟札の政実は、既に元服していたと考えると辻褄が合いそうな気がする。

政実の実際の年齢が15年ほど遡るとすると、すでに子供が跡を継いでいてもおかしくない年である。

政実の子供が跡を継いだという伝承は残されていない。

津軽家文書』によると、永禄10年(1567)、政実が一戸大和守宗綱を攻めた時、宗綱の二男勝五郎(11歳)が、九戸の二男弾正を射取ったとある。

二男がいたということは長男もいたということである。

天正19年(1591)の時点で、市左衛門という子がいたと伝わり、市左衛門は津軽に逃れ、津軽為信が保護を加え、御馬廻役知行400石を与えらとの伝説もある。

また、『聞老遺事』によると、政実には九戸落城時に3歳ばかりの末子がいて、四戸氏の者が江刺黒石の正法寺に預け、成長ののち江戸に上り3000石をもらい堀野三右衛門と号し、元和年中(1615~24)陸奥国の巡見使として三迫にきて九戸神社に参詣したという。

一子の亀千代は、落ち延びる途中の田子で討ち取られたとも言う。

政実が敗れたのが68才頃とすると、実弟と伝わる実親は政実の子だったとも考えられる。

歴史の想像は楽しい!

https://youtu.be/9zYVNgJviTc


2017年9月 6日 (水)

若宮八幡

九戸政実の子・亀千代は、九戸落城後に城を抜け出した。

同盟関係にある津軽氏を頼って、田子方面へ逃走。

しかし、家臣の裏切りにあってしまった。

亀千代を哀れに思った地元民は、若宮八幡宮を造りその霊を慰めた。

http://www.airinjuku.com/kikou/kikou004.html

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2017年8月17日 (木)

政実の野望

今となっては昔のことである。
400年前の天正年間、関白秀吉の天下に反旗を翻す田舎武将がいた。
名前は九戸政実。
北奥随一の武将である。
事の発端は南部一族の相続問題である。
しかし、いつの間にか天下人の秀吉に対する反抗と言うことになった。
前の年には、小田原の北条氏が豊臣の軍門に降り秀吉に反抗する者は誰も居ないはずなのである。

「気に入らない」というのが政実の気持ちだったのかもしれない。
昨日まで秀吉の名前を知らなかったような者までが秀吉に頭を下げている。
何かがおかしい。九戸党5000人で秀吉軍10万人と対決することを決意する。

天正19年8月25日、九戸対豊臣軍による中世最後の戦が始まった。
豊臣軍は徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政など名だたる武将10万人で攻めてきた。
姉帯城、根反城の九戸側の城は奮闘むなしく落城した。


政実は浪打峠(末の松山)を固めた。
秀吉軍は北へ一歩も入ることはできない。
思いもかけなかった展開にあわてた秀吉軍の蒲生氏郷と浅野長政は、それから卑怯な戦法ばかりを使う。
まず、政実の実弟・中野修理を九戸城攻めの先頭に立たせる。
九戸城の包囲には北奥の武将を配置する。
実際に命をかけて戦うのはかつて九戸の仲間だった連中だ。

続く

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http://www.airinjuku.com/index.html