九戸古城主君みずや

2019年3月18日 (月)

久慈城の当主久慈直治

久慈城の当主は、久慈直治は九戸政実の弟を、娘の婿としてむかえます。つまり、政実の弟は、久慈家に入り久慈正則と名乗ります。

久慈城は中世の遺構が残ります。現在の久慈中心部からは少し離れて、大川目地区にあります。正確な築城時期は不明ですが,南部氏の庶家である久慈氏の第12代 久慈信実の代である15世紀後半より、居城として機能していたと言われています。

九戸の決起の際には、久慈氏の当主・久慈直治と政実の実弟である久慈政則は九戸政実方につき九戸城に籠城します。久慈直治・政則親子は、降伏後に九戸政実らとともに処刑されて久慈氏嫡流は滅亡しました。戦いの終結後である1592年ごろに久慈城は廃城となったようです。

なお,南部氏より独立して明治維新まで大名として存続する津軽氏の祖・津軽為信は本性を大浦と言い、久慈氏から大浦家の養子となって家督を継いだものです。このことからも、九戸落城後に、九戸の一派が津軽に逃れたのも、単なる伝説とは言えないのである。


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2019年3月17日 (日)

九戸の盟友 櫛引河内守清長

九戸政実と九戸城に籠もった櫛引河内守清長と弟左馬助清政は櫛引城の城主である。櫛引城の築城年間は不明だが、古い時代から交通の要衝であった。櫛引氏は初め根城南部氏に仕えていたが、三戸南部氏13代守行の頃には三戸南部氏を主と仰いでいた。

永禄十年(1567年)、櫛引氏が八戸政栄の留守中にその所領を侵略し、近隣に放火したため、元亀二年(1571年)、八戸氏の軍勢によって櫛引城は攻撃を受けた。東政勝が櫛引氏を支援したものの、櫛引勢は降伏した。

櫛引氏の本拠地には、南部一宮と言われる櫛引八幡宮がある。櫛引八幡宮の前名は、四戸八幡と称していた記録がある。三戸南部家24代晴政書状によれば、櫛引氏が剣吉に出動することを「四戸殿は戸内に馬を出す」などと書いている。

九戸と同じく、晴政派の武将だったのだ。と言うことは、三戸と五戸の中間に位置する浅水(五戸町)、剣吉・名久井(名川町)、苫米地、さらに東に伸びて櫛引・中野・島守・大森を含む、馬淵川下流域と浅水川流域は、四戸であったと想像される。

櫛引氏は、四戸氏の有力な一族であったのであろう。四戸一族からは、櫛引、中野、武田、金田一、足沢などの諸氏が出た。このなかでは櫛引氏が優勢で、南部信直方の八戸南部氏に対抗したと伝わっている。

天正十九年(1591年)に起きた、九戸政実の乱に際し、当主櫛引河内守清長と弟左馬助清政は九戸政実方に加担した。浅水城・苫米地城・根城・是川館の諸城館を攻撃したあとに九戸城に入城するが、羽柴秀次の率いる奥州再仕置軍との戦いで、櫛引清長は戦死した。

櫛引清政は九戸政実と共に降伏し、三迫松尾村(栗原市)で斬首されて櫛引氏は滅亡した。櫛引城もまた根城南部氏の攻撃を受けて敗れ去った。天正二十年(1592年)の「諸城破却書上」には、「櫛引 平城 破 代官 桜庭 将監」とあり破却された。


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2019年3月16日 (土)

九戸政実の客将大里修理親基

九戸政実の客将大里修理親基は、武蔵七党丹党安保実光の子孫と言われている。

武蔵七党とは、畠山重忠にも縁があったはずで、鹿角にも近い浄法寺とも深い繋がりがありそうだ。

大里修理親里を祖とする鹿角安保氏の惣領である。

陸奥国鹿角郡大里村(現 秋田県鹿角市八幡平)の在名により氏とした。

鎌倉期に郡内地頭職に任命され、鹿角安保氏の惣領は大里村を領した大里上総、次男が花輪村を領した花輪次郎、三男が柴内村を領した柴内弥次郎と言われる。

彼らは「安保三人衆」とも呼ばれた。

安保氏が成田氏と同族関係にあって、安保氏が成田氏を名乗り、南北朝期には大里に拠った成田小二郎左衛門尉頼時と六郎奉時が南朝方であり、北畠顕家の下で頼時は鹿角の国代に任ぜられた。

建武4年(1337年)津軽の曾我貞光が足利尊氏に呼応して戦端を開くと、成田奉次は南部師行らとともにこれを破った。

永禄元年(1558年)鹿角侵入を図った檜山の安東愛季に一族の応じ、大里備中が呼応して長牛城を攻撃したために、鹿角は一時安東方の占有するとこになった。

しかし、同11年(1569年)、南部信直の出陣によって秋田勢は敗れ鹿角から撤退した。南部方の中心は九戸政実であった。

その後、大里氏は旧領を回復し、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあったと思われる。

大里修理親基は、三戸の信直と終始反目し、天正19年(1591年)、九戸政実の乱において同郷の大湯四郎左衛門昌次と共に九戸氏側に加わった。

戦いでは中心的役割を果たしたとして九戸城降伏の際、政実ら主だった首謀者達として集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。

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2019年3月15日 (金)

九戸城物語 コラゲ

九戸政実の子・亀千代は、11才だった。鹿角郡から津軽に行き、再興を図るべく、落城の迫った8月23日に城を脱出した。馬淵川を渡り、米沢、下斗米、上斗米を越えて、田子の上郷まで逃れた。

後見人は佐藤外記であった。外記は、政実の実弟・実親の奥方が三戸南部本家から輿入れの時、付家老として九戸の渦中に入った人物である。

南部信直は、亀千代が城を脱出したとの情報を得て追っ手を差し向けて探索させた。亀千代一行が、上郷の左羽内に差し掛かったところ、馬上の亀千代が、「外記、ゲキ、お前の顔色が悪いが何事か」と聞いた。外記は、「追っ手が迫っています。敵の手に渡すには及びません。覚悟を。」と突然、背後から鎗を構えた。

亀千代は、子供ながら落ち着いて、「鎗では首を刎ねられまい。この刀を使え。」と自分の刀を取って外記に渡した。

また一説には、亀千代が子供とあってトンボ取りに夢中になり、指をグルグル回していた。背後に忍び寄る気配がしたので振り返ると、外記が鎗をしごいていた。亀千代はとっさに叫んだ。「こらっゲ」と叫んで首を刎ねられた。地元の人は、この場所を「コラゲ」と呼んでいる。

のちに佐藤外記は、信直から許されて,姓を下参郷と改めて、田子十六村を勤める胆入りとなったと伝わっている。田子地方の童歌に、「ダンブリコダンブリコ、グルグル回して首ちょん切るぞ」として、後世に伝わっている。

別の伝承では、首を刎ねられたのは、病死した同じ年頃のであり、津軽為信の協力で津軽に落ち延びたとも伝わる。津軽家臣に、九戸氏がいるので、全く荒唐無稽の伝承でも無いような気がする。

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南部九戸落城

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2019年3月14日 (木)

九戸の決起

九戸政実の決起は、天正19年(1591)に起きた争乱です。南部家の第25代晴継が没した後、南部家を誰が相続するかで争い、最後は南部信直が相続しました。それに異を唱えたのが九戸政実です。

九戸政実は実弟の実親推していました。それまでの経緯は複雑ですが、九戸党が信直の相続を不服として南部家に対して反旗を翻し、最終的には信直を支援する豊臣政権の軍勢が九戸城を攻略し、降伏した政実以下を斬首して解決したということが通説になっています。

九戸政実が九戸城に籠もって豊臣勢と戦ったのは、間違いない史実だが、そのときの当主が、どの「政実」であったかどうかは、実は確実な証拠がないのである。九戸政実の名が、歴史上に登場するのは、天文7年(1538)の日付で九戸神社に伝わる建立時の棟札で確認できます。

その札には、「大旦那源政実」と記されているそうです。「大旦那源政実」とは、源氏の血を引く政実という意味であるが、政実は56才で処刑されたと伝わっています。そうすると、天文7年(1538)は3才ということになり、果たして「大旦那源政実」と名乗り、神社を建立したとは考えにくいのではないでしょうか。

棟札の政実は既に元服していたと考えると辻褄が合いそうな気がします。そうすると、政実の年齢は、10歳ぐらい高くてもいいかもしれません。

それから推測する地。実弟と伝わっている実親は政実の長男とも考えられます。そう考えれば、南部家の相続争いに異議を唱えたことが、とても大きな意味を持ちそうです。

津軽家文書』には、永禄10年(1567)、政実が一戸宗綱を攻めた時、宗綱の二男勝五郎(11歳)が、九戸の二男弾正を射取ったとあるそうです。二男がいたということは長男もいたということですね。ということは、子供が亀千代だけだったという伝承と矛盾します。

天正19年(1591)の時点で、市左衛門という子がいたと伝わり、市左衛門は津軽に逃れ、津軽為信が保護を加え、御馬廻役知行400石を与えらとの伝説もあります。津軽家臣団に九戸某がいたとの記録もあり、興味深いですね。

また、『聞老遺事』によると、政実には九戸落城時に3歳ばかりの末子がいて、四戸氏の者が江刺黒石の正法寺に預け、成長ののち江戸に上り3000石をもらい堀野三右衛門と号し、元和年中(1615~24)陸奥国の巡見使として三迫にきて九戸神社に参詣したともつたわります。

はたして、歴史の真実は何処にあるのでしょうか。

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2019年2月 2日 (土)

衣更

九戸政実に関する、伝説をご紹介します。

太閤秀吉に、最後に抵抗した武将が、九戸政実である。
小田原の北条を降伏させ、天下統一、ほぼ完成した秀吉にとって、思いがけない、最後の戦いが待っていた。

九戸勢は5000人の兵で、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政などの、豊臣連合軍5万人を迎え撃ち、一歩も引かない戦いを展開した。

落城の直前、政実の子・亀千代は、九戸城から脱出を計り、津軽へ落ち延びるつもりであった。津軽為信を頼ってのことであった。

武家の服では怪しまれるので、商人の衣装に着替えて、無事に九戸城から脱出し、斗米方面を通り、現在の田子町に入った。そこで武家の服に着替えて馬に乗り、随行した佐藤外記とともに津軽に向かおうとした。
亀千代が着替えた土地は、後世の人達から衣更(きぬがい・きぬがえ)と呼ばれるようになった。

伝説の真相は不明ですが、珍しい地名なので、もしかしたら事実かも知れない思うこの頃です。

https://youtu.be/Oj6KUEmAv04

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2019年1月13日 (日)

衣更(きぬがえ)

太閤秀吉に最後に抵抗した武将が九戸政実である。

小田原の北条を滅ぼし、天下統一をほぼ完成した秀吉にとって最後の戦いが待っていた。

九戸勢は5000人の兵で、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政などの武将5万人を迎え撃ち、一歩も引かない戦いを展開した。

落城の直前、政実の子亀千代は九戸城から脱出を計り津軽へ落ち延びるつもりであった。

武家の服では怪しまれるので、商人の衣装に着替えて無事に九戸城から脱出し、斗米方面を通り現在の田子町に入った。

そこで武家の服に着替えて馬に乗り、随行した佐藤外記とともに来満峠を越えて津軽に向かおうとした。

亀千代が着替えた土地は、後世の人達から衣更(きぬがい・きぬがえ)と呼ばれるようになった。

https://youtu.be/Oj6KUEmAv04

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2018年9月 4日 (火)

九戸政実の客将大里修理親基

九戸政実の客将大里修理親基は、武蔵七党丹党安保実光の子孫と言われている。

武蔵七党とは、畠山重忠にも縁があったはずで、鹿角にも近い浄法寺とも深い繋がりがありそうだ。

大里修理親里を祖とする鹿角安保氏の惣領である。

陸奥国鹿角郡大里村(現 秋田県鹿角市八幡平)の在名により氏とした。

鎌倉期に郡内地頭職に任命され、鹿角安保氏の惣領は大里村を領した大里上総、次男が花輪村を領した花輪次郎、三男が柴内村を領した柴内弥次郎と言われる。

彼らは「安保三人衆」とも呼ばれた。

安保氏が成田氏と同族関係にあって、安保氏が成田氏を名乗り、南北朝期には大里に拠った成田小二郎左衛門尉頼時と六郎奉時が南朝方であり、北畠顕家の下で頼時は鹿角の国代に任ぜられた。

建武4年(1337年)津軽の曾我貞光が足利尊氏に呼応して戦端を開くと、成田奉次は南部師行らとともにこれを破った。

永禄元年(1558年)鹿角侵入を図った檜山の安東愛季に一族の応じ、大里備中が呼応して長牛城を攻撃したために、鹿角は一時安東方の占有するとこになった。

しかし、同11年(1569年)、南部信直の出陣によって秋田勢は敗れ鹿角から撤退した。

その後、大里氏は旧領を回復し、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあったと思われる。

大里修理親基は、三戸の信直と終始反目し、天正19年(1591年)、九戸政実の乱において同郷の大湯四郎左衛門昌次と共に九戸氏側に加わった。

戦いでは中心的役割を果たしたとして九戸城降伏の際、政実ら主だった首謀者達として集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。


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2018年8月25日 (土)

櫛引河内守清長

九戸政実と九戸城に籠もった櫛引河内守清長と弟左馬助清政は櫛引城の城主でした。

櫛引城の築城年間は不明。

櫛引氏は初め根城南部氏に仕えていたが、三戸南部氏13代守行の頃には三戸南部氏を主と仰いでいた。

永禄十年(1567年)、櫛引氏が八戸政栄の留守中にその所領を侵略し、近隣に放火したため、元亀二年(1571年)、八戸氏の軍勢によって櫛引城は攻撃を受けた。

東政勝が櫛引氏を支援したものの、櫛引勢は降伏した。

櫛引氏の本拠地には、南部一宮と言われる櫛引八幡宮がある。

櫛引八幡宮の前名は、四戸八幡と称していた記録がある委。

三戸南部家24代晴政書状によれば、櫛引氏が剣吉に出動することを「四戸殿は戸内に馬を出す」などと書いている。

九戸と同じく、晴政派の武将だったのだ。

と言うことは、三戸と五戸の中間に位置する浅水(五戸町)、剣吉・名久井(名川町)、苫米地、さらに東に伸びて櫛引・中野・島守・大森を含む、馬淵川下流域と浅水川流域は、四戸であったと想像される。

櫛引氏は、四戸氏の有力は一族であったのでしょう。

四戸一族からは、櫛引、中野、武田、金田一、足沢などの諸氏が出ました。

このなかでは櫛引氏が優勢で、南部信直方の八戸南部氏に対抗したと伝わります。

天正十九年(1591年)に起きた九戸政実の乱に際し、当主櫛引河内守清長と弟左馬助清政は九戸政実方に加担した。

浅水城・苫米地城・根城・是川館の諸城館を攻撃したあとに九戸城に入城するが、羽柴秀吉の率いる奥州再仕置軍との戦いで、櫛引清長は戦死した。

櫛引清政は九戸政実と共に降伏し、三迫松尾村(栗原市)で斬首されて櫛引氏は滅亡した。櫛引城もまた根城南部氏の攻撃を受けて敗れ去った。

天正二十年(1592年)の「諸城破却書上」には、「櫛引 平城 破 代官 桜庭 将監」とあり破却された。

https://youtu.be/R_GVVb8fIzc




2018年8月21日 (火)

九戸政実の客将大里修理親基

九戸政実の客将大里修理親基は、武蔵七党丹党安保実光の子孫と言われている。

武蔵七党とは、畠山重忠にも縁があったはずで、鹿角にも近い浄法寺とも深い繋がりがありそうだ。

大里修理親里を祖とする鹿角安保氏の惣領である。

陸奥国鹿角郡大里村(現 秋田県鹿角市八幡平)の在名により氏とした。

鎌倉期に郡内地頭職に任命され、鹿角安保氏の惣領は大里村を領した大里上総、次男が花輪村を領した花輪次郎、三男が柴内村を領した柴内弥次郎と言われる。

彼らは「安保三人衆」とも呼ばれた。

安保氏が成田氏と同族関係にあって、安保氏が成田氏を名乗り、南北朝期には大里に拠った成田小二郎左衛門尉頼時と六郎奉時が南朝方であり、北畠顕家の下で頼時は鹿角の国代に任ぜられた。

建武4年(1337年)津軽の曾我貞光が足利尊氏に呼応して戦端を開くと、成田奉次は南部師行らとともにこれを破った。

永禄元年(1558年)鹿角侵入を図った檜山の安東愛季に一族の応じ、大里備中が呼応して長牛城を攻撃したために、鹿角は一時安東方の占有するとこになった。

しかし、同11年(1569年)、南部信直の出陣によって秋田勢は敗れ鹿角から撤退した。

その後、大里氏は旧領を回復し、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあったと思われる。

大里修理親基は、三戸の信直と終始反目し、天正19年(1591年)、九戸政実の乱において同郷の大湯四郎左衛門昌次と共に九戸氏側に加わった。

戦いでは中心的役割を果たしたとして九戸城降伏の際、政実ら主だった首謀者達として集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。

https://youtu.be/VrxfQJSVPgk

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