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歴史

2018年12月13日 (木)

浄法寺つながり

浄法寺つながりで栃木県那珂川町を調べています。

浄法寺氏がいたようですね。

漆掻きを生業としている方もいるようです。

黒羽藩の家老に浄法寺某がいました。

松尾芭蕉の知り合いだったようです。

岩手の浄法寺とはつながらないようです・・・・。

畠山重忠ともつながるようですので、調べてみたい気もします。

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2018年9月26日 (水)

「三戸地方の山中には48の院坊を巡る御山ガケがあった」


名久井岳の麓には、地元では長谷寺と呼ばれている名刹がある。

長谷寺の境内に牡丹園があり素晴らしい景観を作っている。

名川町の法光寺も近く、歴史のロマンを感じる地域である。

蓮台山長谷寺(真言宗)は奈良の長谷寺の末寺であるという。藤原時代作の県下最古の十一面観音像が宝物殿に納められている。

さらに 450年前、観光上人が八葉山天台寺を第1 番、長谷寺を第33番として巡礼したときの巡礼札が文化財となっている。
 
境内にあるイチョウの巨木はみごとである。

往時には48の末社があり、長谷寺はその一つとされる。恵光院から山頂の名久井岳権現を含め48の末社を巡る御山がけが行われていた。

今も山麓泉山地区では男子7才になると「月山参り」が行われているという。出羽三山から遠く離れたこの地に月山信仰が根付いたのは、奥州藤原氏の権勢下にあった平安時代後期と推察される。

一体には、南朝方の長慶天皇に関する伝説も残り、馬淵川上流の天台寺とともに歴史の謎を解く鍵を握っていると考えられる。

そのあたりの修験者が使っていた漆器を発掘しました。

お楽しみに!

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2018年9月19日 (水)

西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館


西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館


2018年09月19日 17時02分 時事通信

福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。

藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。 

書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。

複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。

県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。 

安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。

面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。 

村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。

西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。 

西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。

この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。 

落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。

『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。 

【時事通信社】

https://youtu.be/rSKg5ctDQjA

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2018年9月15日 (土)

星野之宣 宗像教授伝奇考

読んだら引き込まれてしまいました。

文句なしに面白いです。

全集揃えることを目標にします。

まずは3冊揃いました。

ヤフオクなどでも結構高額です。

新品価格より、中古価格が高額なのは、何かカラクリがあるんでしょうか。

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2018年9月 7日 (金)

盛岡の三戸町

三戸町と言っても、かつて盛岡市にあった行政区名です。

昭和50年代は、盛岡市内で「三戸町」表記を見かけた記憶がありますが定かではありません。

盛岡の三戸町は、近世の盛岡南部氏が、故知である三戸(青森県)から盛岡に移る際に、城下の商人などを移住させた事に由来するようです。



・盛岡城造営開始 慶長二年(1597)。

・町割着手    慶長四年(1599)。

・三戸城下から新地(盛岡)に移住 元和三年(1617)。

・最初の町人町のひとつ。

・水田地帯の中に造成された町に移されたので、「田町」とも言われた。

・11日、21日は市日。

・延宝(1680)鐘楼が建立された記録あり。

・盛岡城天守閣屋上の鯱(シャチ)を鋳造した小泉五郎七作だそうです。



三戸町はその名前の通り、三戸の人々の町で、商人の町だったようですね。

https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005

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2018年9月 4日 (火)

南部藩士由緒記

「南部藩士由緒記」 (平成30年3月3日)


浄法寺氏の祖は桓武平氏秩父流畠山氏、畠山重忠の三男、阿闍梨重慶が祖と伝わっている。

重慶ほかの畠山氏については、二戸浄法寺を始め、秩父地方、能登地方など各地に伝説が残る。

『南部藩士由緒記』
畠山重忠と太郎重保が、奥州の戦功によって頼朝から二戸郡を受けたとする。
その後この地を継いだのは二男であるが、この嫡子が死んだため、
鎌倉浄法寺で出家した者が還俗してこの家を継いだ。

こちらの資料では二男が継いだと書かれている。
この嫡子が亡くなり、鎌倉の浄法寺にいた一族が還俗して浄法寺家を継いだ。
現在は、鎌倉に浄法寺という寺は存在しない。
この資料から想像されることは、浄法寺一族に仏教に関係した人物がいたと言うことだ。
もしかしたら、天台寺の庇護者だった可能性は捨てきれない。
あるいは、漆で勢力を拡大したかもしれない。

群馬や福井、鎌倉など、仮説を立ててしらべたいです。
問題はやっぱり費用ですね。

https://youtu.be/TU-t99g2c_E

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2018年8月18日 (土)

遣唐使の末裔

前回は、遣隋使や遣唐使よりも、「遣日使」が多かった事を書きました。

日本には隋や唐の他、インド、ベトナム、新羅、渤海などからも遣日使が押し寄せて来ていました。

あの有名な小野妹子が日本に帰国する際には、32隻もの大船団がついてきたそうです。

9~19世紀の日本では、遣唐使などよりも遣日使のほうが多かったのです。

日本の教育機関は、なぜこのことを教えないのでしょう。

悪意を持って、一定の方向に目を向かせようとしているかのようです。

「飛鳥時代から平安時代にかけ遣隋使、遣唐使の派遣目的は隋や唐から先進文化を取り入れるためである。」

日本の教科書は、基本的にこのように記述しています。

しかも、歴史学者と言われる人々は、遣唐使の何倍もの遣日使が来ている事実を見逃しています。(故意に見逃した?)

最初の遣隋使を派遣するに当たり、聖徳太子が小野妹子に持たせた国書のあの有名な文言は象徴的です。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつ)が無きや」を見れば、当時の力関係は台頭だったのです。

太子の書を不快に思った煬帝は、この遣隋使への返礼として大使裴世高を小野妹子に同行させ、隋の冊封体制に組み入れようと試みたのですが失敗に終わります。

小野妹子は、隋の皇帝の返書を求められた際には「無くしました」と聖徳太子に応えています。

素晴らしい外交術です。

これ以降、日本は常にチャイナとは対等な関係です。

忘れてはならないことですが日本と唐は対等でしたが、百済は兄弟国であり、新羅に対しては宗主国でした。

高句麗はチャイナの地方政権のようなものです。

朝鮮は、チャイナを宗主国として仰ぎ、自らは日本の兄と称して格付けに躍起ですが、歴史的証拠も無くて、滑稽というしかありませんね。

ちなみに、日本からあちらに行った人たちは、帰れなくなった人を除いて、みんなこちらに帰ってきたそうです。

現在でも、チャイナから多くの人が日本にやって来て住むのに、その反対は?

どうでも良いことですが、小野妹子の子孫は昭和の御代になり、英国の若者と結婚します。

相手の名はジョン・レノンで、その子孫は小野ヨーコです。

https://youtu.be/ymchCOLEUz0

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遣日使は遣唐使より多かった #2

日本には隋や唐からも、インド、ベトナム、新羅、渤海などからも遣日使が押し寄せて来ていました。

あの有名な小野妹子が日本に帰国する際には、32隻もの大船団がついてきたそうです。

9~19世紀の日本では、遣唐使などよりも遣日使のほうが多かったのです。

なぜこのことを教えないのでしょう。

「飛鳥時代から平安時代にかけ遣隋使、遣唐使の派遣目的は隋や唐から先進文化を取り入れるためである。」

日本の教科書は、基本的にこのように記述しています。

しかし、歴史学者と言われる人々は、遣唐使の何倍もの遣日使が来ている事実を見逃しています。(故意に見逃した?)

特に、最初の遣隋使を派遣するに当たり、聖徳太子が小野妹子に持たせた国書のあの有名な文言は象徴的です。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつ)が無きや」を見れば、当時の力関係は台頭だったのです。

太子の書を不快に思った煬帝は、この遣隋使への返礼として大使裴世高を小野妹子に同行させ、隋の冊封体制に組み入れようと試みたのですが失敗に終わります。

小野妹子は、隋の皇帝の返書を求められた際には「無くしました」と聖徳太子に応えています。

素晴らしい外交術です。

これ以降、日本は常にチャイナとは対等な関係です。

忘れてはならないことですが日本と唐は対等でしたが、百済は兄弟国であり、新羅に対しては宗主国でした。

高句麗はチャイナの地方政権のようなものです。

朝鮮は、チャイナを宗主国として仰ぎ、自らは日本の兄と称して格付けに躍起ですが、歴史的証拠も無くて、滑稽というしかありませんね。

ちなみに、日本からあちらに行った人たちは、帰れなくなった人を除いて、みんなこちらに帰ってきたそうです。

現在でも、チャイナから多くの人が日本にやって来て住むのに、その反対は?


https://youtu.be/hC7KxTch63Y

神棚にあった石器

家屋解体の際に、解体屋さんから処分を依頼された神棚。

信仰する神社からアドバイスをいただき処理しました。

その際の古い和紙に包まれた石器が出てきました。

どのようなものかは分かりません。

どなたか、詳細をしりませんか。

調査続行中!

https://youtu.be/wSdkAMoaoaw

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2018年8月16日 (木)

遣日使は遣唐使より多かった

日本とチャイナ、日本とコリアはギスギスした話題が多い昨今ですが、ギスギスした関係にも長い歴史があることが判りますね。

インターネットを検索すると、「遣日使」という言葉を見かけます。

戦後教育で私たちは、日本が隋や唐から日本より優れた文化を取り入れようとして、遣隋使遣唐使を盛んに送ったと教えられました。

しかし、田中英道・東北大学教授は「遣日使の方が多かった」との見解を述べています。

「日本の歴史において、常に外国から学び、模倣して日本文化が形成されている、という歴史家、評論家の固定観念が、日本の世界における文明的な位置づけを怠らせ、その意義の検討を遅らせてきたのである。遣唐使という言葉はあるが、遣日使という言葉がないこともその証拠である」

そこで思い出されるのが聖徳太子のあの有名な言葉です。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつ)が無きや」

実は、遣唐使の何倍もの使者が唐から日本に来たと田中氏は説きます。

日本書紀には、「唐人を乗せた船が余りにも多く押し寄せたので、防人たちはすわ侵略軍かと思い弓を射た」という記述があります。

教えを請おうと渡って来たのは唐のみならず、新羅や渤海からも来ていました。

渤海は日本への朝貢国で、高句麗とは対立関係にあった国です。

鑑真和上は有名ですね。

日本へ仏教を広めるため何度も日本への渡海を試みて、やっと日本に来たときは目が見えなくなっていたと教えられました。

なぜ鑑真和上は、日本への渡海を何度も試みたかが不思議でした。

しかし、当時の日本の文化への憧憬から「遣日使」という言葉から浮かんできます。
仏教はすでに聖徳太子が国策として取り入れ、神道と仏教両輪でそれなりに安定した社会でした。

彼らにとって日本は文化果つる国ではなく、憧れの国だったのです。

明治維新後に、清国から多くの留学生が日本を目指したのと同じ現象だったのですね。

この部分を、日本の教育は教えません

チャイナの文化を吸収し、独自に高め、庶民までもが「万葉集」に見るように和歌を自在に詠む教養度の国が日本でした。

文化だけではなく、金や銀の精製技術をさえ日本は有していたようです。

遣隋使、遣唐使の人や船の数より遣日使の数が上回り、それらの人々の多くが、鑑真のように帰化する道を選びました。

当時の奈良の人口の三分の一は帰化人だったとの説もあります。

反対に、遣唐使や遣隋使として海を渡った日本人たちが、帰化して住み着いたという話は

あまり聞きません・・・・。

遣隋使、遣唐使よりも、「遣日使」が多かった事を覚えておいてください。

https://youtu.be/32viSbJ25mo