全国の重忠伝説に興味津々
陸奥浄法寺の名族浄法寺氏を調べています。
畠山重忠の伝説と重なりますが、今回の見つけた資料に、興味深いことが書いてありましたので紹介します。
各地に伝説が残りますが、全国の伝説を集めて一つにまとめたら面白そうです。
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全国の浄法寺を調べています。岩手県、栃木県、群馬県、福井県、京都府などに浄法寺地名を見つけることができます。なんとなくですが、畠山重忠がキーワードなような気がします。
福井県吉田郡永平寺町は、町名が示すように、名刹永平寺のある町です。このまちに浄法寺山と言う山があります。調べて見ると、畠山氏の同族伊地知氏がいたりして、なかなか興味深い土地です。
もしかしたら、永平寺も当初は浄法寺と呼ばれていた可能性があるのではないかと思っています。群馬や栃木の「浄法寺」も、畠山重忠の足跡がでてきます。
また、盛岡の南部氏は、前田利家を通じて豊臣秀吉に接近しています。なにかと前田利家に相談していたようです。茶道に造詣が深かったのは、前田家との関係と思われます。
江戸期には、南部藩の漆を越前に送ったとの説もありますし、明治期には、越前からたくさんの漆掻き職人が浄法寺地方にやってきて、新しい技法を伝えました。
永平寺を参拝しながら、福井県の浄法寺を調べてみたいです。
浄法寺という地名から、浄法寺という寺院の存在を調べています。
かつては那須郡に浄法寺という寺院があったようです。
http://www.wikiwand.com/ja/%E9%82%A3%E9%A0%88%E9%83%A1
那須郡の郡寺は那須官衙遺跡の北方、那須郡那珂川町浄法寺下坪に位置する浄法寺廃寺であると考えられている。
この遺跡は7世紀中葉ごろに創建された寺院の跡で、那須官衙遺跡と同じく箒川右岸の台地上に位置する。
栃木県那珂川町の浄法寺舘を調べています。
興味深いサイトを見つけました。
来年のアユの季節に行ってみたいです。
http://yogokun.my.coocan.jp/totigi/ogawamati.htm
浄法寺館は、那珂川に面した河岸段丘上にあった。北には那珂川、南側にはなめり川が流れ、天然の水堀を成している。
地元の片から伺った話によると、城の辺りは「御城(みじょう)といい、またすぐ近くには「中城」という屋号のお宅がある。浄法寺氏の館で、大関氏に臣従し、婿に入ったことがあったそうだ。城の遺構などは特に残っていない。」ということであった。「御城」「中城」といった関連地名の存在からすると、それなりの規模を有した城館であったものであろうが、城址内部は宅地化が進んでいて、旧状はさっぱり分からなくなってしまっている。
城址には箒川に注ぐなめり川が蛇行しながら流れており、箒川と、このなめり川の織りなす断崖とを天然の要害とした城館であったものと思われる。
「遺構はない」というお話であるが、付近には下の写真のような土塁がけっこう長く延びていた。ただし、堀は見られなかった。
浄法寺館は浄法寺氏の居館であった。浄法寺氏については詳しいことは分からないが、おそらく那須一族であり、現地での伝承の通りに、後には大関氏に仕えたという。
八戸には江戸末期の大名婚礼に関わる漆器が残されています。
産地がどこか興味のあるところです。
http://www6.pref.aomori.lg.jp/p-view/information/konnatoko/enkaku/kinsei/post-114.html
八戸藩8代藩主・南部信真は十一男九女に恵まれたが、男児の多くが早世した。急ぎ養子縁組の必要に迫られた八戸藩は、1838年(天保9年)4月、鹿児島藩の島津篤之丞を、娘鶴姫のむこに迎えることとしました。これが最後の9代藩主となる南部信順です。
八戸南部家と島津家が結びついたきっかけについては諸説あり、たとえば八戸藩の江戸藩邸には、さまざまな相撲見物が訪れており、実際に1826年(文政9年)に八戸藩上屋敷に島津斉彬などが與招かれていることから、そうした交友の延長線上に縁ができたことを重視する向きもあれば、それ以前から両家は姻族となっており、その関係から縁組が実現したとの指摘もある。
信順の婚約者鶴姫は1838年(天保9年)の婚約当時、わずか2歳だったので、正式な結婚は1850年(嘉永3年)6月となりました。信順が持参したとされる婚礼調度品「菊牡丹唐草轡十字紋蒔絵漆器」13点には島津家の家紋「轡十文字」があしらわれ、鶴姫の婚礼調度品「唐草南部鶴紋蒔絵漆器」12点とともに八戸市博物館に所蔵・展示されています。
名久井岳の麓には、地元では長谷寺と呼ばれている名刹がある。
長谷寺の境内に牡丹園があり素晴らしい景観を作っている。
名川町の法光寺も近く、歴史のロマンを感じる地域である。
蓮台山長谷寺(真言宗)は奈良の長谷寺の末寺であるという。藤原時代作の県下最古の十一面観音像が宝物殿に納められている。
さらに 450年前、観光上人が八葉山天台寺を第1 番、長谷寺を第33番として巡礼したときの巡礼札が文化財となっている。
境内にあるイチョウの巨木はみごとである。
往時には48の末社があり、長谷寺はその一つとされる。恵光院から山頂の名久井岳権現を含め48の末社を巡る御山がけが行われていた。
今も山麓泉山地区では男子7才になると「月山参り」が行われているという。出羽三山から遠く離れたこの地に月山信仰が根付いたのは、奥州藤原氏の権勢下にあった平安時代後期と推察される。
一体には、南朝方の長慶天皇に関する伝説も残り、馬淵川上流の天台寺とともに歴史の謎を解く鍵を握っていると考えられる。
そのあたりの修験者が使っていた漆器を発掘しました。
お楽しみに!
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/321442518
西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
2018年09月19日 17時02分 時事通信
福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。
藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。
複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。
県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。
面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。
村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。
西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。
この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。
『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。
【時事通信社】
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読んだら引き込まれてしまいました。
文句なしに面白いです。
全集揃えることを目標にします。
まずは3冊揃いました。
ヤフオクなどでも結構高額です。
新品価格より、中古価格が高額なのは、何かカラクリがあるんでしょうか。
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三戸町と言っても、かつて盛岡市にあった行政区名です。
昭和50年代は、盛岡市内で「三戸町」表記を見かけた記憶がありますが定かではありません。
盛岡の三戸町は、近世の盛岡南部氏が、故知である三戸(青森県)から盛岡に移る際に、城下の商人などを移住させた事に由来するようです。
・盛岡城造営開始 慶長二年(1597)。
・町割着手 慶長四年(1599)。
・三戸城下から新地(盛岡)に移住 元和三年(1617)。
・最初の町人町のひとつ。
・水田地帯の中に造成された町に移されたので、「田町」とも言われた。
・11日、21日は市日。
・延宝(1680)鐘楼が建立された記録あり。
・盛岡城天守閣屋上の鯱(シャチ)を鋳造した小泉五郎七作だそうです。
三戸町はその名前の通り、三戸の人々の町で、商人の町だったようですね。
https://blogs.yahoo.co.jp/michinoku2005
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