ヤフオクで落札されました
在庫で抱えていた漆器。
新企画の資金稼ぎを再開です。
在庫で抱えているよりも、安くてもいいから資金に換えたいです。
そして、落札した方が喜んで使ってくだされば幸いです。
断捨離と、資金稼ぎを兼ねて出品しますのでよろしく願いします。
在庫で抱えていた漆器。
新企画の資金稼ぎを再開です。
在庫で抱えているよりも、安くてもいいから資金に換えたいです。
そして、落札した方が喜んで使ってくだされば幸いです。
断捨離と、資金稼ぎを兼ねて出品しますのでよろしく願いします。
本日は一戸の旧家を発掘しました。
記憶に何となくある造り酒屋です。
依頼された鉄瓶の納品を兼ねての訪問でした。
一番の収穫は、良い形の四つ椀があったことでした。
おそらく、造り酒屋の職人達に食事を振舞った名残でしょう。
次回も発掘を続けたいと思います。
それに刺激され、古漆器磨きを再開しまいた。
「おせんこ椀」と古老が言っていたのを覚えています。
50年以上前のことなので、「おせんこ」という発音に自信がありません。
冠婚葬祭の最後に出す蕎麦を入れる器と聞いたことがあります。
この椀で直接出すのではなく、最初の一杯はこの椀で出しますが、お代わりはこの椀の蕎麦を、最初の椀に入れるというものでした。
わんこ蕎麦の古い形と思っています。
3月末から多忙で、やっと落ち着きました。
ブログも再開します。
お付き合いくだされば幸いです。
私的古漆器展示室も、動き出していますが当初の予定と大幅に変更になるそうです。
今月中には、一部を改装工事に入ります。
最大の問題は資金。
そんなわけでヤフオク出品中です。
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古文書とは言えませんが、戦前の浄法寺漆に関する資料もいくつか収集しています。
技法も含めて、150年前の事績が意外に残っていないんです。
藩政時代から続く塗師と、天台寺に繋がる塗師があったようなんですがよく分かっていません。
隣の一戸町にも塗師が居たようですし、二戸市福岡にも椀工場がありました。
そのあたりのことが伝わっていません。
何よりも、農家の冬のアルバイトだったとも言われます。
地道に調べたいと思います。
安比川流域の漆文化が注目されています。
古い漆関係のものを収集しているものとしては嬉しい話題です。
収集した中に、漆を入れていた甕があります。
出荷するためのものか、漆を購入した際のものかはわかりません。
元々は軟膏が入っていた物を、漆用に再利用した物かも。
天保13年ですから西暦1842年です。
約180年前のものです。
密かに「漆の町浄法寺」の宝物と思っています。
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20世紀初頭のパリで活躍した漆芸家に菅原精蔵がいます。
山形県酒田地方の出身で、19世紀初頭にパリにわたりました。
フランスでは浄法寺から来た漆職人ということになっています。
浄法寺へのかかわりを調べましたが、残念ながらつながりはありませんでした。
しかし、浄法寺から来た漆職人といわれてるのには何か理由があるはずです。
数年前に、拙いホームページにフランスから問い合わせがありました。
その時に、アイリン・グレイ関係の資料を送ってもらいました。
彼女は、ヨーロッパでは有名な建築家で、彼女に漆芸を教えたのが菅原精蔵とされています。
個人的には、絶対に何らかの形で浄法寺にかかわりあると思っています。
そのあたりのことは、資料をまとめて出版を考えています。
電子書籍という便利な道具が出てきたのはうれしいです。
物置から作りかけの看板がでてきました。
春からはこれを使って頑張ります。
文字は奥州天台寺窯の陶芸師です。
見かけたらよろしくお願いします。
安比川流域の漆文化が注目されています。
古い漆関係のものを収集している者としては、嬉しい話題です。
収集した中に、漆を入れていたと思われる壺があります。
出荷するためのものか、漆を購入した際のものかはわかりません。
軟膏壺五升入れとも読めるので、元々は漆を入れる物では無いかも。
天保13年ですから西暦1842年です。
約180年前のものです。
密かに「漆の町浄法寺」の宝物と思っています。
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二戸郡の漆器は来歴甚だ古く、約九百年前いまだ轆轤を用いざりし頃、既にその業在りしものの如し。旧記に高倉天皇の嘉応年間秀衡が平泉に無量光院を創建せし当時に其の産遠く京師に伝えて奥州秀衡椀等の名ありきと伝う。郡内浄法寺村の八葉山天台寺山中の衆坊が其の業を平泉に伝習して食器等を製造し、登山の参拝者に販売し相尋いで衣川の没落者が浅沢地方に来往しその業を伝え、漸次同業者を生じ製作品は之を浄法寺に掲げり。最れ二戸郡漆器の創業時代にして今を距る七百数十年前のことに属す。
後南部氏の治に入りて南部椀と呼び、其の模様あるものを南部模様と称え、天台寺の例大祭には境内二の丸は露店をなし販路漸く拡張せられ御山御器、浄法寺御器等の敬語さえ用いらるるに至れり。御山は天台寺所在の地なり。
天正年間九戸政実征討の軍に参加し来れる蒲生氏郷が凱旋の切、漆工若干を伴いて其の製作を伝えしものを会津塗の祖となすとの説あり。
承応明暦年代田山村に、寛文年間浄法寺村松岡に、御用木地師を置かる。松岡の木地師左衛門四郎の子孫荒沢村赤坂田に住し其業に関する故録記古証文等を蔵す。寛文より享保に至る七十年間に其の産額著しく高まり、寛延宝暦の頃に至つては福岡一戸方面の塗師職人を有せざる地方にも漆樹の栽植年々多きを加え、漆商競いて浄法寺市日に出でて当地方の漆器職人を迎えたり。而して一方是等の製品を売捌かんが為に浄法寺には伊勢屋、大和屋、浅沢には加賀屋、枡屋等の商人を生じ、盛岡には塗物問屋勝山長十郎あり、在方売買には鉈屋町武兵衛あり、各々資金を投じ南は盛岡仙台方面より東海岸に及び、北は三戸郡の櫛引八幡宮の祭日に販売し、西は秋田に移出し年々多額の生産あり、同業者は次第に殖えて、安比の流域を遡り、荒屋方面にも生じ更に山脈を横切って田山村にも生ずるに至り、却って浄法寺は日に月に其の数を減ずるに至れり。
勢斯くの如きものあり、隋って工人互いに其利を争い、粗製濫造信を需要者失うものあり、加うるに宝暦天明の二大凶作に依って尠からざる打撃を蒙るりしも、寛政のの晩年より再び台頭し、文化文政の頃に至っては恢復全く成り隆運往時を凌ぐに至りき。斯くて徳川氏の晩年に至っては、現在の荒沢村漆器の産地となり、浄法寺は市場たるの観を呈するに至れり。
維新後一時大に衰頽せるも、明治三十一年九月二戸郡漆器組合を設立し、木地の改良、下地の改良等に努る所あり、同四十三年四月、県、郡、村等の補助並びに有志の寄付金に依って荒沢村に蒔絵伝習所を設け、金沢より教師を招き数年間村内の子弟に髢漆及蒔絵の伝習を行い傍ら付属木地挽工場に於いて木地の改良研究を行い一時其の成績見る可きものありき。斯くの如きして笠井知事の時代には最も奨励に力を注ぎ年間数百円の補助金を支出し凡そ大正四五年の頃までは当局の奨励と当業者熱心によりて漸次進歩し来りたるも、次第に原料の不足、大量生産地の圧迫、其の他の原因により再び不振の状態に陥り、又爾来農家の副業として発達し来りたる関係上次第に粗製安価に隋し昔日の盛況を窺うことを得ざる迄に至れり。
現在二戸郡漆器は荒沢村を主として浄法寺村、一戸町の三箇所に於いて年額八万円程の産額を有す。浄法寺村は荒屋新町、田山、小屋ノ畑、保戸坂、萩畑、赤坂田等の部落に製造家散在し年額約七万円位の製産を見る
生産形態は純然たる家内工業又は農家の副業の形態にして、製品の殆ど全部は日用安物の椀なり。販路は附在方及び北海道方面にして月三回浄法寺村に於いて市を開き福岡町方面の仲買商人の手に買い取らるる状態なり。目下製品は極度に低下し椀の如き一個卸売七、八銭の程度ありと、其道奨励指導の施設として何等見る事えを得ず此の儘に推移せんかあたら古き伝統を有する浄法寺椀も此の儘次第に廃滅し終わらん、近時漆樹栽培の声大に宣しく県に於いても近く荒沢村付近い漆樹の栽培を計画しつつありと。
以上の文献は出典を忘れましたが、昭和3年ごろの二戸郡漆芸の証言です。過去の文献をそのまま記述してあったり、微妙に訂正しなければならない部分がありますが、90年前の浄法寺漆の状況を伝える資料です。
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古漆器展示館は需要があるかどうかは判りませんが、4月以降に準備に入ります。
費用が不足しているので、空いた時間でコツコツとやるつもりです。
なので、完成までは半年ぐらいはかかりそう。
まずは不要物の断捨離から始めます。
維持費をどうやって捻出するかが仮題です。
ですが、浄法寺になければならない施設だと勝手に思っています。
完成したら遊びに来てください。
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